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ハーモニカ

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 帰る家、家族を持つ子供達を見送りながら、どんな気持ちでいるのだろうか。プレッシャーになってはいけないと思い、記憶に関して触れなかったスペンサーだが、気持ちは聞いてみたい。
「ナオは日本に帰りたいかい?」
 彼はスペンサーを見上げ、小首を傾げる。
「何も覚えていないのでわかりません。日本は知らない外国のようです」
(自分の生まれた国なのに)
 ナオの答えに、スペンサーは胸が詰まった。一瞬の沈黙で悟ったのか、少し声のトーンを上げて今度はナオがスペンサーに尋ねる。
「あなたは日本に行ったことがありますか?」
「ないよ。でも父が昔、仕事の関係で滞在したことがあるんだ。ちょうど春の花の時期で、とても美しかったと言っていた。君もその花を見たことがあるんだろうね?」
 ナオはそれにもまた「わかりません」と答えた。
「いつか日本に行こう。君の生まれ育った国だ、きっと何か覚えていることもあるさ」
 スペンサーはそう言って、彼の頭を撫でた。
「さ、中に入ろう。上着を取って来ないと、そんな格好で畑に出たら凍えてしまうぞ」
「大げさです。まだ十月に入ったばかりです。私は寒くても平気のようです」
「見ている私が寒いんだよ」
 スペンサーが口をへの字に曲げると、ナオはクスクスと笑った。
「あれ? ピート?」
 笑みを途中で止めて、ナオが前方を見た。自転車がこちらに向かって走って来る。乗っているのは先ほど見送った子供の一人、ピートだった。
「神父さま、これ、母さんから!」
 彼はオーバーオールの胸ポケットから白い紙包みを出し、スペンサーに渡した。中の物を確認すると、数週間前に注文した品物が入っている。ピートの家はこの辺りで唯一の雑貨店で、教会から目と鼻の先にあり、彼は一旦家に帰ってから母親に使いを頼まれたものと思われた。
「次の日曜でも良かったのに?」
「だいぶ遅れたからって。お代は礼拝の時にもらいますって言ってた」
「ありがとう。お母さんによろしく伝えて」
 ピートは自転車の向きを元来た方向に戻して、手を振り振り帰って行く。
 スペンサーは子供の姿が見えなくなってから、白い包みをあらためて開け、中から品物を取り出した。掌サイズのハーモニカである。真新しく銀色に光っていた。それを物珍しげに見ているナオに手渡す。
 ナオがハワイから持って来たものは、教会から施された衣類数点と靴箱くらいの小さな箱だけ。箱の中には襤褸切れと、ハーモニカが入っていた。襤褸切れは海から引き上げられた時に身に着けていたものの残骸だ。ハーモニカは彼自身が握りしめて離さなかったものだと聞いている。ただナオはそのことはおろかハーモニカの存在自体も憶えていない。しかし大事なものだと言うことはわかった。乗っていた艦は大爆発を起こして沈没し、自身は瀕死の重傷を負ったにもかかわらず離さなかったものだから。
 ハーモニカは海水に浸かって内部が錆びついているので音は出ないし、外見も変形して疵がひどく、見たところで記憶を呼び覚ます道具にはならない。それでスペンサーは良く似た新しいものを注文したのだった。ナオが来て一年半、気づくのが遅かったとスペンサーは思わなくなかったが、気づかないよりはマシだ。
 ナオは掌の上のハーモニカを黙って見つめている。
「ナオ?」
 彼の右目から涙が零れて頬を伝った。
「ナオ? 何か思い出したのか?」
 期待が言葉になったが、彼は首を振った。
「いいえ。でも胸が痛いです。なぜかはわからない。言葉に出来ないです。でもとても胸が…」
 胸が痛いと言いながらも、ナオは愛おしげにハーモニカを撫でた。
 その場限りの思いつきではなく、スペンサーは本当にいつか、ナオを日本に連れて行きたいと思った。何もかも忘れた彼が、無意識に名を呼ぶほど大切な人がいるように、日本にもナオの帰りを待っている人間がいるはずだ。あの戦争を生き延びているなら、きっとナオの帰りを待っている。
 ヒュッと、この地方特有の乾いた風が吹き抜けて行った。スペンサーは大げさに身震いして見せると、ハーモニカを見つめたまま動かないナオの肩にそっと手を置き、ドアの中に入った。



作品名:ハーモニカ 作家名:紙森けい