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ハーモニカ

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(一)




[ 一九四五年 四月 ]


 一九四五年四月五日、そろそろと陽が傾き始めた頃、「准士官以上、集合」の声が艦内に響いた。
 通信参謀付きの池辺信乃夫は書類整理の手を止め、顔を上げる。いつもと様子が違って感じるのは、数日前に米軍の沖縄上陸の報を受けていたからだ。そしてそれより少し前、乗組員に休日として上陸許可が下りたことがあって、乗員達はそれを何かの符号と憶測していた。
 信乃夫が乗船しているのは、帝国海軍が不沈と誇る戦艦だった。いつまでも港で停泊し続けるはずもなく、近々に出撃命令が下ることは必至だった。行き先は沖縄かも知れない――集合場所に指定された第一砲塔右舷に向かいながら、信乃夫は漠然と思った。
 召集のかかった「准士官以上」の末席に類する信乃夫は、列の一番後ろに付く。
 音楽学校の学生だった信乃夫は、昭和十八年十月に公布された在学徴集延期臨時特例によって召集された。それまで大学、専門学校等の高等教育諸学校の在学生には、徴兵延期措置がなされていたのだが、戦況の悪化により理工系と教員養成系を除いた学生は、須らく徴兵されることになった。所謂、学徒出陣だが、信乃夫は明治神宮外苑で華々しく送り出された第一期生ではなく、それ以後の、徴兵年齢に達して順次粛々と召集されたうちの一人である。
 音楽にしか興味のなかった学生の信乃夫は、約一年半の海軍生活の間に、国民に正しく伝えられない部分まで、戦況を把握するようになっていた。多少、英会話が出来たために通信班に配属されたので、おそらく他の一般兵よりも情報に通じていたかも知れない。事態の逼迫感をひしひしと感じていた。ゆえに、艦長が読み上げる連合艦隊命令の中に「特攻」と言う言葉を聞いた時、「ついにそこまで来たか」と瞑目した。
 次に出撃する時は、生きて帰れないかも知れないと思っていた。燃料、弾薬、あらゆる戦闘物資が不足していた。遥か太平洋を越えて飛来し、軍関係施設や都市部に壊滅的な空襲をかける米軍との差は歴然としている。すでに大本営の権威的な発表では取り繕えないところまで来ていた。そんな状況下での出撃では、不沈と言われる艦であっても十分な働きが出来ようはずはない。それが特攻、すなわち生きて帰るなとの命令だ。艦長に続き副長から出港前にすべき具体的な指示が出されたが、信乃夫はぼんやりと聞いていた。他人事のようだった。
 准士官以上にまずそれが伝えられた後、乗組員全員に甲板上への集合命令がかかった。二千五百余名が一堂に会しているとは思えないくらい、甲板上は静かだった。
 茜色の夕陽が辺りを染め始めていた。どんな時代でも太陽は同じに昇り沈む。信乃夫は瞳の動きだけで周りを見回した。緊張とも、誇らしげとも取れる乗員達の表情。中にはまだ少年の面差しを残した者もいる。このうち、運よく生き残ることが出来る者は何人いるだろう。
 五体満足に産み育ててもらったにもかかわらず、親孝行らしいこともしないまま逆縁を結ぶことになる。
(国のために死ぬことも親孝行になるのか)
 しかし親よりも先に逝くことは、どう美辞麗句で飾っても親孝行とは言えまい。これで南方に出兵した次兄が長兄に続いて戻らなければ、両親は自分達の血を受け継ぐ小さな『未来』を見ることもなく一生を終えるのだ――信乃夫は老いた両親のことを想った。出征の際、駅で別れたきりで二人とは会っていない。三月の空襲で焼け出された後、群馬の親戚を頼ったと言う手紙をつい先日受け取った。返事は書いたがまだ出さずに信乃夫の手元にある。最期の手紙になるかも知れない。書き直した方が良いだろうか。
 信乃夫の脳裏に両親以外の顔が浮かびかけた時、「解散!」の声がしてハッと顔を上げた。
 脳裏のそれは形を成さないまま霧散し、彼自身、誰の顔かを意識しないまま、持ち場へと戻って行った。


作品名:ハーモニカ 作家名:紙森けい