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りんごの情事

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第9話




「甲子園は終わったじゃないですか。でも、来ると思ってましたけど。」
 早朝。朝靄がかかるいつもの河川敷で、來未とムサシは、ランニング途中の明吉に鉢合わせる。
 甲子園と同時に夏も盛りを終えていく。あんなに暑かった8月も、いつの間にか過ごしやすい気温になりつつある。明吉は前に河川敷であった時よりも一層陽に焼けて黒くなっている。甲子園の太陽は球児たちの熱でまばゆいばかりに輝いていたのだろう。
「まぁ、色々お呼ばれしててね。やめられないんだよ、体作り。」
「明吉さんは、ずっと忙しいですね。」
「そうだな。これじゃあ、來未とデート出来ないな。」
「ふふふ、それは残念ですね。そうだ、遅れてしまいましたが、優勝、おめでとうございます。」
 日に焼けた明吉の顔は、甲子園のあの熱気を彷彿させる。全ての想いをかけたであろうあの舞台。
「ありがとう。本当に来てくれるとは思わなかったから、すごく嬉しかった。」
 はにかんだ表情で明吉は真直ぐ來未の瞳を見て応える。來未は明吉のまなざしの強さに、押されそうになったが、ゆっくりと目を閉じてから明吉を見直し、にっこりと微笑んだ。來未には明吉が眩しく感じられて、直視するのが憚れるような感覚に陥った。でも、今までテレビと遠目にしか見れていなかったので、近くにいることが出来て嬉しい。
「兄貴がさ、珍妙な動きをするからさ、皆がどこにいるか分かったんだ。結構見えるんだ。おれ、視力両目2.0だから、兄貴のことも、ニタさんのことも、龍のことも、決勝の時はアリスのことも見えたよ。あ、あと甲子園球場にジャイアンツの帽子を被った女の子も。」
 そう言って、明吉は來未が被って来た帽子を、片手で掴んで外した。そして、懐かしそうに眺めながた。
「ありがとう。ずっと持ってたんだな。」
 そして、明吉の動きが止まる。しばらく止まったので、思わず來未は「どうしたんですか?」と尋ねた。
「いや、この帽子、來未のにおいがするんだな、と思って。ちょっと興奮するな。」
 帽子を見つめながら、真顔で答える明吉。その様子から、恥を感じることは出来ない。來未は呆れてひっぱたいてしまいたい気持ちに陥ったが、その姿に兄である政宗との類似性を発見し、しみじみした。見ためから性格まで全部違うように見える兄弟だが、やはり似ているところはある。兄弟だから、当たり前だ。
「あの、一応、毎日ファブリーズして乾かしてました。」
 遠慮がちに來未が言うと明吉ははっと我に返り、帽子を來未の頭に被せなおした。
「あ、そういう意味じゃなくて。ごめん、俺、変なこといった。あの、聴かなかったことにしてくれると、凄く嬉しい。」
 ようやく自分がおかしなことを言ったということに気付き、明吉は顔を真っ赤にして目を泳がせながら視線を空に向ける。
「明吉さん、あの、すいません、一応清潔に使っていたつもりなんですけど、お返しします。」
 來未は帽子を外し、明吉に差し出す。なんだか変にぎくしゃくしてしまう。
「う、うん、大丈夫。全然気になんないから。」
 明吉も戸惑いながら、そのジャイアンツの帽子を受け取って被り直す。二人の間には変な間が流れる。
 傍にお行儀よく座っていたムサシが頭を動かして不思議そうに二人を交互に見つめる。尻尾を振るスピードが徐々に弱まっていき、尻尾の動きが止まりかけた時に立ち上がり、お腹に響く低い鳴き声で「わん」と一吠えした。
「ムサシ?」
 來未と明吉がはっとしてムサシを見る。するとそこには、一生懸命尻尾を振っているムサシの姿があった。自分に注目が来て嬉しいのだろう。明吉と來未は、思わず顔をほころばせた。
「ごめんごめん、、ムサシのこと、忘れてないからさ。」
 明吉はムサシの目線と同じ高さになるようにしゃがんで、ムサシの背をとんとんと優しくたたき「おすわり」させた。そして、愛おしそうにムサシの体全体を撫でると、再び來未に向き直った。暑い夏の太陽が宿るような情熱的な眼差しを真直ぐに來未に向ける。
「ずっと言おうと思ってたんだ。初めてこの河川敷であった時から、ずっと感じてたんだ。でも、いろんなことが障害になって言えなかった。凄く臆病で卑劣な奴だから。でも、昨日、甲子園で優勝して、ひと段落が付いた。だから、言うよ。」
 明吉の太陽のような情熱を伴った眼差しに、來未は溶けてしまいそうな心地がした。暑くて暑くて、苦しい。なんだか涙が出そうだ。
「來未、聞いてくれ。俺は、來未のことが好きだ。初めてここであった時から、ずっと。」
 明吉は、來未から視線を外すことなく、真剣な表情で真直ぐに見つめる。來未は、まるで喉元に剱を向けられたかのような気持ちになり、急に怖くなった。明吉からこのようなことを言われることは、流石の來未でもうすうす感づいていた。だから、しっかり自分の気持ちに整理を付けて、明吉に話をしようと思っていた。自分は大崎との思い出のことを忘れることは出来ない。そして、この気持ちはまだ解消されることもない。安々と気持ちを別の人に移す気など、どうしても起きないのだ、と伝えるつもりだった。
 しかし、言えない。
 甲子園で明吉自身の生き様を見てしまったからには、その太陽の眼差しを向けられたからには、もう、言えない。
 悔しいことに、來未の心には「いとしい」という想いが芽生えてしまった。
 シロツメクサの葉よりも小さい小さな小さな双葉である。
 存在は小さいが、來未の心の片隅にしっかりと根を張っていた。
 混乱する來未は、明吉の視線を受けながら、表情も変えずにただひたすら涙をぼろぼろとこぼした。
 明吉は、苦虫をつぶしたような表情で頭を横に振った。そして、優しく來未を抱きしめた。
「まだ、苦しいんだな。まだ、來未の中に、いるんだな。でも、それでも、俺は來未が好きだ。來未を幸せにしたい。いや、幸せに出来るのは、俺なんだ。だから、苦しまなくて良いんだ。」
 突然温かい腕に抱かれて、來未は体が硬直した。怖いと感じたが、明吉の太陽の香りに包まれたら、急に安心した。閉じ込めていた感情がダム決壊のごとく溢れ出来て、その胸に体を預けて声をあげて泣いた。
 大崎との記憶を思い出すと、胸が苦しい。もう誰かを愛することなんて、こりごりだと思う。だからこそ、明吉とはそういう関係にはなりたくない。
 とにかくこの人は凄いのだ。自分の夢に真直ぐに進んで、全部一人で成し遂げた。きっと嫌なことも沢山あったんだと思う。性格も明朗快活できっとだれにでも好かれるだろう。そんな人が、こんなささやかなことで不貞腐れてしまうような人間に興味を抱いている。きっと明吉が思っている來未と本物の來未自身は違うと思う。幻滅させないためにも深く付き合うべきではない。それでも、來未は明吉のこの太陽のような包容力と明るさと強さの虜になってしまいつつあるのだから、どうしたらいいのか分からない。
 明吉はムサシにやったように、優しく來未の頭をなでるのだった。大きな手のぬくもりが心地よい。
「俺は、待つよ。きっと來未の気持ちは時間が解決するんだと思う。でも、俺は、早く來未との時間を過ごしたい。俺のためにお菓子や料理を作ったりしてもらいたい。」
作品名:りんごの情事 作家名:藍澤 昴