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りんごの情事

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第5話



その日の夜、友人からのメールで、大崎が多々良さんと東京にオープンキャンパスに来ていたということが判明した。あの時見た二人の姿は確かに本物であったことが事実として確定した。
 駅前の喫茶店で仁田村に溢れ出る言葉を聞いてもらって、來未は少しは楽になったような心地がした。これから來未は大崎のことを忘れて生きていかなければならない。忘れてしまった方が楽だろうと來未も思った。きっと、この先素敵な男性が來未を待っているだろう。そしたら、こんな気持ちにならなくて済むのだから。
 と、思いながらも來未は大崎との思い出を回想してしまうと何とも言えない気持ちになってくる。苦しくて切なくて悲しくて。好きだった。現実を認めなければならないが、未だに認められない自分がまだそこにいる。
 その日は來未は知らないうちに眠りについてしまった。お風呂にも入っていない。
翌日、來未はけたたましいチャイムの音で目が覚めた。
寝ぐせを立てたまま、昨日と同じ服で寝ぼけ眼で玄関を開けると、そこには袋を持った仁田村がいた。
「くーちゃん、これ。」
 と、言って、仁田村は袋を差し出した。
「これは、一体。」
 來未は袋を受け取り、中を確認した。中には小麦粉やイチゴ、バター、牛乳、卵といった食材が入っていた。
「くーちゃん、これでイチゴのタルトを作ってほしいんだ。あと、クッキーも。ニタはこれからバイトだから、バイトが終わる夕方までには作っててほしい。突然だけど、良いかな?」
 來未はあまりにも突然すぎるので返答に困ってしまった。しかし仁田村は
「じゃぁ、よろしく!バイト遅刻しちゃうから、頼んだよ!」
 と、半ば押し付ける形で言い捨てると、急いだ様子で玄関口から走り去っていった。カンカンカンカンと階段を下りていくと、自転車をものすごいスピードで漕いで、どこかへ行ってしまった。
 残された來未は、とりあえずシャワーを浴びてから部屋の掃除から始めることにした。時刻は朝の9時。今日はやることがなかったので、のんびり家事をしながらお菓子を作るのはちょうど良かった。もしかすると、仁田村が來未を部屋の中で一日塞ぎ込ませないように気を使ってくれたのかもしれない。
 突飛な気遣いだったが、來未にはとても有難かった。

*******************************

 夕方になると、再び仁田村がやってきた。
 來未の部屋はお菓子作りで甘い香りがふわふわ漂っていた。入るなり仁田村は鼻を動かしながら幸せの香りを堪能する。
「ぶっちゃけ、昨日スイーツ食べに行かなくても、今日くーちゃんが作ってくれるなら問題はなかったね。」
「いえ、一流パティシエのスイーツに比べたら私のお菓子なんて足元にも及びませんよ。」
 真顔で語る來未。料理が得意な來未はプロの料理人を尊敬している。情熱を料理に注ぐ彼らは來未の憧れであった。本気で料理人になりたいと考えたことがあったが、趣味は趣味のままでいた方がいいだろうと來未はいつの時にか考え、普通の道を歩むことに決めている。
 仁田村は台所に目をやると、かわいいラッピングの小袋と箱があった。恭しく小袋を一つ手に取り、
「くーちゃん、これはもしや。」
と、來未に向かって尋ねる。來未は少し照れくさそうにしながら
「あ、クッキーです。箱のはイチゴのタルトです。せっかく作ってニタさんに渡すんだから、と思ってラッピングを買ってきちゃいました。」
と、答えた。
 仁田村はそんな來未の心遣いに感動した。と、同時に安心もした。昨日の今日で、來未は塞ぎ込んでいるのではないかと心配していたからだ。だが、今の來未は、外に出て買い物に行けるくらいに落ち着いてきている。朝來未の部屋を訪れた時に、來未が昨日と同じ服装だったことに気付いて、一人にするのは心配だったが、どうにか気を紛らわせることは出来たみたいだ。
 仁田村は満面の笑みを浮かべて
「くーちゃん、ありがとう!じゃぁ、せっかくだから、クッキーを食べながら、ムサシの散歩に行こうか。」
と、言った。すると來未ははっとして、
「あ、今日、ムサシの散歩に行くのを忘れてました。」
と、言った。龍がいない間は來未がやることになっていた朝のムサシの散歩。來未は昨日の衝撃ですっかり忘れていた。というよりも、その時間帯に來未は眠っていた。
「そうそう。昔野が心配してたよ。さ、行こう。」
 仁田村に促され、來未はムサシの散歩へ向かった。

**********************

「ムサシの散歩、久しぶりだな。」
 來未のクッキーを頬張りながら仁田村が伸び伸びした様子で言う。ムサシのリードを握るのは來未である。ムサシは穏やかな様子で來未のそばにぴったり寄り添って、嬉しそうに來未や仁田村を交互に見つめながら歩く。
 ムサシの散歩コースは、りんご荘のある住宅街を抜けたところにある河川敷を通る。初めてムサシに出会った場所でもある。あの時ムサシが河川敷まで逃げてきたのは、ちょうどここが散歩コースだったからだ、と來未は思っている。
 この河川敷はきれいに整備されていて、他の家の犬が散歩しているのをよく見かける。また、カラフルなウェアに身を包んでジョギングをする人も多く見受けられる。ベンチでは老人がのどかにお喋りを楽しんでおり、おそらく多くの人々に愛されている場所だ。
「そういえば、昔野が気晴らしにムサシの散歩を続けてみてはどうかって。朝は龍がやるけど、休みの日の夕方はどうかって言ってたよ。」
「悪くないですね。ムサシの散歩、楽しいですし。でも、昔野さんは散歩を行わないんですか?」
「昔野はあまり人が多いところに行くのは好きじゃないみたい。あの人の世界は狭いよ。まぁ、ムサシは昔野のペットというよりもりんご荘のペットって感じだからね。りんご荘の部屋が狭いから昔野の家で飼っているわけだし。」
昔野はやはりちょっと変わった人なのだろう、と來未は思った。來未は昔野が不動産の収入で暮らしていることを知らないので、決して働きに出かけない昔野のことが不思議でたまらなかった。
 のんびり昔野の話をしながら河川敷を散歩していると、不意に後ろから誰かに「よ、お二人さん、久しぶり。」と声をかけられた。
 來未と仁田村が振り返ると、そこにはTシャツにハーフパンツ姿の身軽な出で立ちの明吉がいた。明吉とは前の練習試合の日以来会っていない。2週間ぶりだ。
「おう、明吉、どうしたの?」
 仁田村は相変わらずクッキーを頬張りながら、明吉に声をかける。
「いや、俺は日曜夕方はいつも河川敷を通ってランニングしてるんだよ。むしろこっちがどうしたのって聞きたいよ。いつもはりんご荘の人を見かけたことないのに。」
「みりゃ分かるだろうけど、まぁ、ムサシの散歩だね。」
「ニタさんリード持ってないじゃん。」
「に、ニタはくーちゃんのクッキー食べるので忙しいの。」
「え、それ、來未のクッキー?もしかして手作り?」
 明吉は興味津々な様子で仁田村が持つクッキーに反応する。仁田村はその様子に気づくと、意地悪く笑って、明吉に見せびらかす。
「そうだよ。これ、くーちゃんに作ってもらったの。いいでしょう。」
「いいなぁ。一つくれよ。」
「えぇ、どうしようかなぁ。」
作品名:りんごの情事 作家名:藍澤 昴