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物音

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あれは夏の始めの頃であっただろうか。夜遅く、私は自室で読書に励んでいた。

といっても、丁度読み終わったところだった。普段の就寝時間をとっくに過ぎていたが、続きが気になり結局最後まで読んでしまったのだ。私は結末まで辿り着いた所で満足し、就寝しようと布団の中に潜り込んだ。
その時、唐突に辞書を取りに行こうと思い立った。
何故そう思ったのかは覚えていない。ただ、本を読んでいて気になった単語を調べるのはよくあることなので、あの時も何か気になる事があったのだろう。しかし、生憎愛用の辞書は一階――自室は二階にある――に置いてある。私は仕方なく布団を抜け出し、自室を出て一階に向かった。

時刻は折しも丑三つ時。家族は皆寝室に引っ込んだ後で、一階には誰もいない。当然、リビングの明かりは消してあって真っ暗だ。だが電灯のスイッチが些か面倒な位置にあることと、辞書の置いてあるテーブルが入って直ぐの所にあるということもあって、私は電灯をつけず廊下の明かりを頼りにリビングに入った。
目当ての物は直ぐに見付かった。矢張り電気を点けるまでもない。私は辞書を手に取るとすぐに二階の自室に戻ろうとした。が――

台所から、物音がした。

台所はリビングと一続きになっている。家族全員、寝室に引き上げた今、台所には誰もおらず当然明かりもついていない。物が落ちたとか、音の出るものがあるとかでもない。なのに、物音がする。

ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・

始めは家鳴りかと思った。建築材が膨張したり収縮したりする時に音が鳴るというアレである。しかしそれだとずっと音が鳴っているのはおかしい。家鳴りなら、音はせいぜい数回しか鳴らないはずである。

件の音は台所の床の辺りからしている。リビングからは些か遠く、明かりなしで暗い上、食卓が置かれているため音源の辺りはよく見えない。その上、私は眼鏡を外していた。何せ就寝前だったのである。辞書を取りに行く程度のことは眼鏡がなくても困らないため、掛けて来なかったのだ。

妙な物音のことは気になったが、わざわざ台所に行くのも眼鏡を取りに行くのも面倒だった。私は廊下の照明の明かりを頼りに、台所の方を伺った。

しばらくすると、音の正体に見当がつき始めた。ぎぃぎぃという、床板が軋む音。これは台所をゆっくり歩いている時の音ではないだろうか? 古い家だから、台所を音を立てずに歩くのは難しい。誰か――というより何かが、台所を動き回っているから、こんな音がしているのだ。
しかし、この家に犬猫の類はいない。野良犬野良猫が入り込んだとは考えられない。『歩き回っている音』などと考えたけど、仮にそうだとして、一体何が歩き回っているというのだろう?

ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・

まだ音は続いている。ずっと同じ調子で鳴りつづけている。

ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・

あれ? おかしい。この音、
何かが歩き回っている音にしてはおかしくないだろうか?

ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ・・・ぎぃぎぃ…ぎぃぎぃ・・・

歩き回っているなら、床が軋む音はぎぃ、ぎぃと一度に一つしかしないはずだ。それが、一度に二つずつ音が聞こえる。歩いているなら、こんな音にはならないはずだ。
そう、これは歩き回っている音ではなく、四つん這いになって這いずり回っている音ではないだろうか。

その瞬間、私の頭に浮かんだのはこんなイメージだった。
白く丈の長いワンピースのような服。乱れた黒く長い髪。そのせいで顔は完全に隠れてしまっている。袖から伸びる手は枯れ木のように細く、異様なほど爪が長い。そんな不気味な女が、床に爪を立てて、ゆっくりと這いずり廻っている――
ホラー映画では在り来りな光景だ。普段の私なら我ながら捻りのない発想だなと思ったことだろう。
しかしこの時ばかりは、己の想像に心底恐怖したのだった。今まさに、髪を振り乱した白装束の女が、台所の床をゆっくりと這いずり廻っているのだと思い込んで。

私はすぐさま踵を返すと、階段を上がって自室に戻った。怖かったのだ。台所を這いずり廻っている女が、私が気付いたことに気付いて追って来るのではないかと。

階段を駆け上がっている間も、足を掴まれるのではないか。部屋に飛び込んでからも、(鍵が掛けられる部屋ではなかったから)戸を開けて入って来るのではないか。布団を被ってからも、あの女が枕元に立って私をじぃっと見下ろしているのではないか。そんな恐怖にかられて、私はわざわざ取りに行った辞書を放り出して布団の中に引っ込んだのだった。
作品名:物音 作家名:紫苑