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京都七景【第八章】

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その空いた席に遅れてきたのが誰あろう、あの時の女の子だったというわけさ。おれは本当にびっくりして、また言葉を失った。今度はショックが大きすぎて、習ったドイツ語はおろか日本語までが全く出て来ない。このまま日本語が出て来なくなったら日本人としてのアイデンティティーまで失くすじゃないかと危ぶんだほどだったぜ。しかし人生は何でも時間が解決してくれるものだな。しばらくビールを飲んでるうちに緊張が解けて来たのだろう、舌が滑らかに回るようになってきた。よし、これなら大丈夫、そう思っていよいよ話しかけるきっかけを狙っていると、これがなかなかそううまくは行かない。いい具合に機会が来たなと思うと決まって隣の新人男が

「ゲーテはどの作品が好きですか」とか「トーマス・マンの魔の山は読みましたか」などと、聞いてどうするというような質問をしかけてくる。眼鏡をかけて端然とした好青年だけに無視するのもどうかと思って、どうにか答えると、

「マンは小説より評論にいいものが多いと思いますけど、あなたはどう思いますか?」などと小難しい質問を繰り出してくる。仕方がないから、

「実は俺、ゲーテを研究するためだけに独文を選んだものだから、ほかの作家のことはよく知らないんだ」と話の腰を折るような答えをした。すると、今度は向かい側の、髪の長い、無精ひげの、とうてい一回生とは思えない学生が喰らいついてきた。

「ほう、そりゃまた、思い切ったことを考えましたね。自分なんか研究したい作家が多すぎてとても一人になんて絞れないけど」
「あら、でもゲーテだけを選ぶところが、すてきですね。だって、ゲーテにはそれだけの価値がありますから。作品も多いし、関心領域も広いし」と件の女性が賛意を表する。
おれは、もう天にも昇らん心地がしたよ。もちろんこの女性を連れて行けないなら、天には決して昇りたくないがな。

「で、きみは誰を研究するつもりなの?」と、好青年が尋ねる。

「実は、わたしも迷っているの。カフカにすべきかシュティフターにすべきか」

「カフカってあの『変身』とか『審判』で人間の不条理を寓意的に書いたドイツ系ユダヤ人作家でしょう?シュティフターは自然の神秘や人間の善意を静かな筆致で肯定的に描いたオーストリア作家ですよね」

「おや、きみ、教科書的説明がなかなかうまいじゃないか。感心、感心。でも、そりゃ確かに両極端だな。カフカは人間の暗い不安を描き、シュティフターは人間の明るさを祈るように描いた。で、今のところ、どっちにしようと思っているの」と無精ひげがまとめにかかる。

「今のところはカフカかな。『変身』の冒頭で、主人公の男が、ある朝起きたら巨大な毒虫に変わっていたわけでしょう。でも、主人公は、すぐにその状況を受け入れてしまう。それって変じゃありません?わたしなら、わあわあ騒いで、大泣きに泣いて、まわりに散々当り散らして、毒を仰いで死んでしまうと思うわ。だからどうしても納得がいかなくて、それで研究してみたいんです」

まあ、これ以上は長くなるから割愛することにして、そのあと、自分の話ばかりで誰もまだ鍋をつついていないことに気づいたその女性が恐縮して、料理を小皿に取り分けてくれたところから再開するよ。
俺は取り分けてもらった皿の中に変なものが浮いていることに気がついた。

「あのう、この折りたたんである黄色いハンカチみたいなものは何ですかね」俺は誰ともなく質問した。

「えっ、京都に暮らしてて、それが分からないんですか」と好青年が素っ頓狂な声を上げる。

「それ、湯葉じゃないですか」と無精ひげが軽蔑のまなざしを向ける。

「これが、湯葉?」 
「ええ、これが湯葉」
「でも、どうして湯葉がこんなところに出て来るんですか?」
「だって今日の料理は湯葉豆腐の寄せ鍋ですよ」と好青年がぴしゃりとケリをつける。
「ハハハハ、なあんだ、そうだったのか。全然知らなかった、ハハハハハ」

俺はずいぶん恥ずかしい思いをしたよ。湯葉も知らなかったんだからな。

「これ、おいしいんですよ。さあ、たくさん召しあがれ」と、その女性はやさしく勧めてくれた。俺はうかつにも涙がこぼれそうになった。

「でも、そろそろ湯葉には飽きたかな」と無精ひげが言った。罰当たりめが。あ、しまった、つい個人的な感情に引きずられてしまった。すまん。本題に戻そう。

「ぼくも、同感です。今度は湯豆腐のコースがいいな」と好青年が贅沢なことを言い出す。
「うん、賛成、賛成。それなら、やはり南禅寺だね」と無精ひげが通ぶったことを言う。
「そりゃ、もちろん、南禅寺ですね」
「南禅寺の湯豆腐ってそんなにおいしいんですか?わたし、まだ食べたことないですけど」
「そりゃあ、おいしいですよ。ちょっとお高いですけれど、コースになっていて、田楽やらゴマ豆腐やら麩まんじゅうなんかがついてる上に庭の枯山水を見ながらの食事でしょう、日本の伝統美に囲まれた、こんな優雅な食事はなかなかどうしてできやしまへんどすえ」と好青年の口調がいささかおかしくなって来る。
「うわあー、いいなー。食べてみたいなー」とカフカ女史(うーむ、本人が聞いたら卒倒しそうな呼び名だな。まあ、話の便宜上仕方ないか。ごめんよカフカ女史)が、目をキラキラさせてのたまふ。その姿は、おいしいものをあれこれ思い浮かべているうち、おいしいものそのものと一体化してしまった幼い子の無邪気と、しあわせと、純真を現していて、不思議と神々しい。

  俺はますます彼女が好きになってしまった。よし、この上は好機逸すべからず。俺は清水の舞台から何度飛び降りてもいい覚悟でこう申し述べた。

「あの、も、もし、俺で、よ、よかったら、案内しますけど」
「ええっ、本当に?いいんですかー?うわあ、うれしー」とカフカ女史は満面に笑みを湛えた。
「うわあ、ぼくらもうれしー」と好青年と無精ひげも一斉に声を張り上げた。
「きみたちは、行ったことがあるでしょ」
「いや、何度行っても好いところですよ、ねえ?」と好青年が無精ひげに相槌を求める。
「まさにその通り。何度でも行きたいところだね」
「行き慣れているんなら、またいつでも好きな時に出かけられるじゃないですか。何も初心者について来なくても」と俺が冷ややかに答える。
「つれない仕打ちだなー、これから仲良くしなくちゃいけないのにねえ」と無精ひげが好青年に助太刀を求める。
「抜け駆けですか」と、好青年は無精ひげを軽く受け流して本筋に入った。声が低くくぐもっている。

 もういけない。これまでである。

「わかった、わかりました。みんなで出かけましょう。このまま押し切って出かけたら後々どんな誤解と禍の種を撒くかわからない(独文専攻はこだわりが強いんだ)。よし、それならいっそのこと奮発して南禅寺の湯豆腐で俺たちだけの記念すべき第一回独文科新人会を開催しようじゃないですか。どうです、賛成してもらえますか」
「待ってました、大賛成」と好青年が拍手する。
「おう、おう、それこそ大人(たいじん)の器(うつわ)。右に同じ」と無精ひげが煽る。
「わあっ、すてき。皆さんでいけるんですね」とカフカ女史。
作品名:京都七景【第八章】 作家名:折口学