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みずのひと・くうのひと

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それらすべては、青の拡散のなかにあった。

 なかばまで水没した神殿の石柱を輪のようにくすぐって、牙をむかない滑らかな波が、緩慢に上下を繰り返していた。海面はその全てを虹色のセロファンに覆われていた。泡沫をいっせいに散らす波打ち際の潮騒、その立体的な音景のなかに、セロファンが触れあうカサカサという音が、どこまでも仕舞いこまれているのだった。
 塩水に浸かったセロファンは浜で堆積し、風化しそして太陽に焼かれると、いつしかそこでコロイド状の隆起となった。内部はまるで打ち上げられたクラゲの体組織さながらであった。いつしかそこに銀河が芽生え、ネットワークの中心に鼓動が生まれると、やがて殻を割って立ちあがる水の人が、はじめての大気を吸った。
 水の人は水面のような肌に地球の全景を映しながら、浜に立ち、立つものを平等に縛りつけている重力の枷をいま思い知った。なんとこの躰の重いことよ。そして嗚呼、なんとこの大気の、澄み渡ることよ。見あげる大気の遠いとおいそのむこうでは、空が沈黙を破ろうとしていた。

 輝きが緋色に触れている直ぐしたのことだった。太古からの風が、擦れ違いに落としてきた空の削りかす、まさしく老婆の白髪かくやと思わせるそれが、そこでは執拗に絡み合い、いつしか悠久を数えながらも、ひとつの繭になっていた。それは輝きが緋色に触れている直ぐしたのラインをいつまでも周回した。ぼんやりとした輝きをまとい漂うそれは、鳥類というものが雛を形づくるための球殻に、酷似していた。繭はゆっくりとした呼吸を繰り返し、たくさんの空を、その体内に蓄えた。
 そのなかで息づくものは、つむったままの瞼のうえに、地表の輝きを映していた。それは明け方に知るところの、浅い眠りのそのものだった。目覚めたことのないものがいつの日も、しばらくは明け方の眠りのなかにあった。背後にはいつも月面があって、その潮力が強くなるごとに、背中の組織が背後へと、剥がれていってしまうのだった。いつしかその部分が翼となった。新芽を吹いたその羽は、空の角質、そのものだった。
 殻を割った空の人は、その末端が大気に溶け込んでしまっている軽やかな躰を試しながら羽ばたくと、浸食された小高い丘に舞い降りて、かれには初めての大地を踏んだ。なんとこの地上に溢れるもののディティールの、確固としたことよ。そして嗚呼、なんとこの大気の、あらゆる臭気に埋め尽くされているさまよ。 追い風に誘われてその方角を見据えると、繭のなかで夢にみた、その者の視線を感じとった。

 それは太古からの主観であったのに、これまでその肉体をもたずにいた。けれどその者は永劫という連鎖に追いつめられて、こうしてその躰のなかに、閉じ込められてしまったのだ。地の人は膝を抱いた姿勢から立ち上がり、網膜を通しこの地上をはじめて見た。大気を深々と吸い、そこで一時の眩暈を堪えると、決意に満ちたその呼気で、初めての発声をおこなった。わたしはそれならば生まれ続けよう。生まれ変わってゆこうではないか。
 地の人は草原のなだらかな起伏の上に天幕を張った。天幕の頂点に明かりとりをこしらえて、雲の柱がいつの日もそこに立つようにした。柱の下には見事な灰色のグランドピアノを置き据えた。単調なフレーズをいつまでも繰り返し、願いが生まれるのをいつまでもまちつづけたのだった。
 いつしかそれがメロディーになった。メロディーは次の変化へむかうためのよりしろとなった。メロディーはやがて曲としての完成をみると、生まれ変わった次の人へと、代々にわたり受け継がれていった。曲はまた新たなメロディーを喚起した。メロディーはまた新たな曲として組み上がり、そう、メロディーとは曲とはまさしく、かつて希薄であった、地の人のなかにある願いであった。
 こうして草原の天幕で数多にわたる楽曲がその灰色のグランドピアノにより弾かれていった。願い、憧れのすべては、完全たる優美として雲の柱を昇っていった。それら楽曲のすべては、かつて地の人の奥底で眠っていたものであった。けれど地の人にとってはそれが、内部にあるよりも仰いでいるほうが感じられるので、かれはそれを昇らせてしまうことを躊躇わなかった。水の人と空の人はいつまでもそれを見ていた。あの落雷でピアノと天幕が消滅してしまうまでは、受け継がれてゆく多くの楽曲に、その耳を澄ましていた。

 そう、消滅してしまうと、ほんとうにそれがあったのかさえ、

 海は鳴るが黙し、空もまた鳴るのだが黙して、こうしてこの地上までが沈黙の時代をむかえることとなってしまった。地の人はそのあいだずっと、おなじ姿で繰り返しに生まれては、代々にわたり雲の輝きを仰ぎ見て、上へうえへとあげてしまった多くのものを、思い出そうと願うのだった。かれは丘の上で地平線を見据えると、多くを偽って、また多くを殺し、多くを消費しては不意にそれをやめ、来た道をまた、もどっていった。そのような時代がいつまでも続いた。地の人は失ったものを言い伝えることすらも止め、粉を碾いてパンを焼いては、それを食した。

 太古からの肉体であったのに、主観するべくことの意義が、まさしくいま閉じようとしていた。けれど次の朝どういうわけか、利発で少し落ち着きのない、ひとりの娘が生まれたのだった。かのじょはちらかった部屋のまんなかでドレスを裁縫すると、それを身に纏いスカートの裾を輪にしては、窓辺に歩みよりそれを待った。 始めに落ちてきたのはレの音だった。レの音の余韻が途絶えると、つぎにはドが落ちて、ふたたびレ(ドの後だとさっきとは違って聞こえるの)、そしてミがなると、その後はあらゆる音階が落ちてきて、地上は判別の効かない、かつてあの天幕で叩かれたすべての鍵盤に相当する音に、埋め尽くされたのだった。娘は窓枠の底辺からすこしだけ顔を覗かせながら、その肩を縮め、両手で耳をしかと塞ぐと、歓喜と、そしてなかば狂気に満ちた、誰にも聞かれない嬌声をその半径に漏らしつつ現象の治まるのをじっと待った。最後に落ちたのはシの音だった。その余韻が途絶えると、娘は戸口へむかい駆けだした。