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和尚さんの法話 『誤認されている仏教の教え』

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「友引」

和尚さんの仏教の立場から我々の思うこと、すること
を見て、気にしなくていいのに気にするというのか、
間違ったことを信じてるんですね。
そう言う事が多々あるそうです。

それから、その逆にああいうことは気をつけないとい
かんのにと思うことが、案外実行していないというの
か、信じていないとかね。
そういうことは坊さんがちゃんと説明をしていないか
らだと。
要するに、坊さんの説き方も足らんし、我々の聴き方
も足らんということでしょうね。

迷信というか、そういうことは何時どういうところか
ら始まってくるのか分かりませんが、非常に根強いで
すね。
例えば、友引。
或いは、中陰の三月越しは云々だとかね。
これはとり間違えなんですね。
友引というのは、仏教の思想じゃありません。
友引とか大安とか、仏滅もそうですよ。
これは暦のほうから出てきたものですね。
友引というのは、友を引くということで、亡くなって
葬式の日が友引になったら次の日に延ばすと。
こうなってるんでしょ。
これはおかしいなと思うんですよ。
友引を恐れるのなら、葬式の日じゃなくて亡くなった
日を恐れなきゃいかんと。
友引に死んだから、友を引くんじゃなかろうかといっ
て恐れるんならまだ分かるんですが、葬式はもう亡く
なった後ですよね。
そういう儀式をずらしたって意味は無いと思うんです。
ずらすなら、亡くなった日を友引として恐れるべきで
あろうと思うのです。

それから、友引の時間だけをずらすというようなやり
方をしますでしょ。
時間だけをずらしてどうだというのでしょうか。
夜中の十二時を超えないと友引は過ぎないんですよね、
だから時間だけをずらしたって友引は過ぎてないのだ
から、それは自分の気休めですね。
それであとで何事もなければ友引に葬式をしたって何
も無いということになるわけです。
そういうことは、諦かに迷信ですね。


それからいろいろ心得て頂きたいのですが、中陰が三
カ月にかかると不吉だと。
事の始まりは、不吉だから止めておこうというような
ものではないんですこれは。
事の始まりというのは、年末に亡くなりましてね、す
ると来年にかかってきますね。
三月目が来年になるというときがありますね。


「忌中」

そういうときは年内のうちに済ませてしまうということが
あるんです。
昔の人は、きちっとやったんです。
表向きには終わったことにして、そして年明けに、おめで
とうを言ったんです。
おめでとうの挨拶をするために、中陰を年内に終わるよう
切り上げたんです。
今はそれが逆になってますね。
何月に死んでも、年賀状を出さない。
会ったときは、おめでとうと言ってるのにね。
年賀状だけは出さない。
こんなアホなことはないと思いますね。
これは大きな間違いで、昔の人は律儀難くて、例えばお世
話になったところへ、おめでとうございますと挨拶をしに
行かんならん。
今でも行きますね。それをするためなんですよ。
礼儀を欠かないようにするために、年内に終わるよう切り
上げたんです。
三月が来年にかかるということですよ。
十二月の末頃に死んだら来年にかかると、そういうことは
とても出来ませんが、まあまあ三十五日とか、六七日が今
年に終わって、もうちょっと来年にかかってくるというよ
うなときに、もう今年のうちに終わらせていただいて、そ
しておめでとうを言いに行きましょうと、こういうことで
切り上げたんですよ。
それは、不吉だとかなんだとかそんなことと違うんです。

我々はじきに不吉、というところへこじつけていくんです
ね。
そういうことをしたら、と、こじつけていくんですね。
これは所以の無い仕来たりです。
そこのところをよく心得て頂かんといけませんのでね。
末から来年へかかるときに限って始まったことであるので
す。

それが今は、どの月に死んでも、三月にかかったら、とい
いますが、それは全く意味が無い。
むしろ、逆に仏法の建て前からいうと、切り上げたらお経
が少なくなるんですよ。死んだ精霊の貰うお経がね。
三月で表向きは一応切り上げてますけども、和尚さんだけ
は来て下さいという家もあるんです。が、すぱっと切って
しまう家もある。
住職だけが参りに行ってるんだったらそれはいいんです。
それはお経を貰えてますからね。
そういうことで、三月で切って、後のお経を貰えなかった
ら、あの世の霊魂が困ることになるわけです。

和尚さんの寺の檀家さんですが、親戚の人が死んでるんで
すが、それが三月にかかる。やはりそれは気にしてるんで
すよ。
だけどもお経は勤めたいというので、五日ごとに勤めたと
いうのです。
七日ごとにしないで、五日ごとにすると三月にかからない。
そしてお経は貰えるしね。それだったらいいですね。

ほんとうはそんなことはしなくていいんだけど、其の人は
一方では三月にかかるからというので、ちょっと怖がって
るんでしょうね。
然しながら、お経は貰わんならんという気があるので、そ
れだったら何時かごとに勤めていったら来月にかからない
ので、和尚さん、頼みますというて頼んだ檀家さんがあっ
たそうです。
だから三月にかかって怖いんだったら、五日目ごとにお勤
めするといいですね。
そういう変な間違いがあるんです。
それは不吉でも何でもないんです。
おめでとうを言いたいために切り上げた。
そういうことの始まりだから、そこのところをよく心得る
といいですね。
だから年賀状なんか一月に死んでも二月に死んでも、来年
の正月は挨拶をしない。
会ったときは、おめでとうございますと言うのにね。
単なる形式的なというのかね。

四十九日が済んだらいいんですよ。
四十九日は、忌中ですね。
この意味は、「忌」と書いた紙を貼りますが、これも皆さ
んはご存じないように思うんです。
四十九日たったら外しますね。
この忌むという意味は、忌み嫌う。
避けるという意味なんですよね。

忌ごとといいましたら、なんとなく亡くなったことを言う
のですね。
亡くなるということは、不吉であるということで、生まれ
るということは目出たいと。
だから不吉な家という印と。
この家は人が亡くなった家だなと。
あの家の前を通ったらあかんでと、子供に教える家もある。
それは何を忌てるのかというと、死んだことを忌てるのと
違うんですよ。

亡くなったら、喪に服すと言いますね。
喪に服すということは、他の事は止めてしまって、ひたす
ら亡くなった人の冥福を祈る。
これは、何度も言いますが、冥土の幸福という意味なんで
すね。
冥土というのは、仏教ではあの世のことなんです。
だから死んだ人が、あの世で幸せになってくれますように
という意味。
死んだ人のお勤めは全て冥福を祈ってるんです。
月のお参りから、中陰からお通夜から、それからお施餓鬼
であろうが年忌法要であろうが、お彼岸のお勤めは全部、
亡くなった人の冥福を祈るんです。

その冥福を祈るために、そのことをひたすらせんならんか
ら他のことを止めてしまう。
他のことをしたら、その分冥福の時間が減るから。
商売も止めてひたすら祈る。
その紙を貼りますね、家へ。