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和尚さんの法話 『諸法集要経』

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「諸行無常」

仏教は諸行無常ということを言いますね。
この無常ということが、これはもう仏教の一番初門
ですね、入り口です。
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂滅」
というのを三宝印というのですが、三つの仏教の旗
印ですね。
それを外したらもう仏教ではないと言われているの
ですね。
その第一行が、諸行無常ということです。
諸行無常ということは、あらゆる全てのものが無常
である。
その無常ということは、次から次から時間と共に変
化していくというわけです。
その変化と言うのは、我々の周りにはその変化する
ものが多くありますが、それは眼に見えるものもあ
るし、眼に見えない変化もあるわけですよね。

例えば、ここにある机でも年々刻々に変化しているわ
けですが、それは我々には分からないわけですよね。
これをこのまま何千年、何万年と置いとくだけで自然
に摩滅して灰になってしまうということで、全てのも
のは無常であるということです。

仏教は、科学ではありませんから、そういうものは変
化する無常であるということだけではなくて、それは
結局我々の命も無常であるということなんですね。

人間は生まれたら必ず死ぬんだと、そのことを言って
るわけですね。
死ぬんだぞということですね結局は。
それは何故、死ぬことを強調するかといいますと、こ
れも何遍も申していますが、あの世があって、そして
そのあの世の仕組みが、あの世へ行ったら皆が平等と
違うんですよね。

あの世というものが無かったら、死んであの世が無
かったら、無常だ無常だということは余計なことで
すよね。
そんなことは要りませんよね。
そんなことを言うても、言わなくても死んだら終い。
だから言うだけ野暮だということだと私は思います
ね。
あの世があるのだったら、死んでも命があるんだか
ら、そんなことを言わんと、ということになりまし
ょうが、それが今言うあの世というところの仕組み
が、善人と悪人が平等の世界ではないということな
んですよね。
兎に角、信仰してたら、向こうへいったら有利なん
ですけれども、信仰を含めて善悪ですね。
その善人と悪人の行くところが違う。
その違うのは何によって違うのかというと、この世
に居たときの行いですね。
善悪の行いですね。その善悪の行いによって、あの
世で決められる。
死ぬんだぞ、人間は生まれたら必ず100%死ぬん
だと。
ひょっとしたら死なずにすむかもわからないという
ものじゃない、必ず死ぬんだと。
ところがその死ぬのもですよね、まだまだと思うて
おったって、それはあてになりませんね。
何時死ぬか分かりません。
極端に言ったら今死ぬか分からん。
というような皆さんの周囲にもそういう死方をなさ
って
いる人があると思いますよね。
さっきまで元気であったのに死んだとか。
昨日元気で会ったのに、昨夜死んだとか。
というようなことがありますね。

和尚さんの檀家さんが言ってましたことですが、そ
の方が碁が好きでね、よく碁会所へ行くんですね。
その方も亡くなったんですけどね。
行ったときに人様の碁を見ますわね、そしてその相
手の方の打った手が非常にいい手だったらしくて、
その見てた人が感心して、「あーいい手やなあ、こ
れはいい手やー」と、言いながら、ふーっとそのま
ま亡くなったというのです。

それから、これは他の檀家さんですが、親子で将棋を打っ
てたんです。
そしてそのお父さんの方が、将棋を打ちながら死んだ。
そういう死にかたがあるんですね。
そんなことはしょっちゅうあることじゃないと思うでしょ
うが、それが危ないんですよね。

そういうふうに、いつ死ぬか分からんぞと、すぐにあの世
へ行く用意は出来てるのかと、こういうことです。
だから無常だぞ、無常だぞ、いつ死ぬか分からんのだぞと
いう、その警告なんですよ。
用意が出来ていたらいいんですよ。
まだ用意が出来てなかったら、今死が訪れてこない生きて
るうちにしておきなさいよと、無常の風は時を嫌わず、い
つ誘いに来るか分からんから。
そういう意味で仏教は、無常ということで警告してるわけ
ですね。

これは長いお経ですから、このへんが大事かなと思うとこ
ろを抜き出してます。

「樹の当に慈栄せんとして密葉にして弥布するも、時過ぎ
れば悉(ことごと)く衰落を見る。生老死、及び愛別離苦
是の如きは何人も免るる者無し。知り已りて勤修し常に無
常を念ぜば是の人命終の時に臨んで諸の苦痛無からん寿(
いのち)当(まさ)に終わるべく、未だ堕せざるは終に没
す。死力は強健にして貴賎皆滅亡さる聚(しゅ)は散の本
少は即ち老に帰し命は死の侵すところ世間の諸の衆生は皆
死の遠きに有りと思い方便して免脱することなく対治の途
(みち)を起こさず」

「樹の当に慈栄せんとして密葉にして弥布するも、時過ぎ
れば悉(ことごと)く衰落を見る。」
つまり、木に葉がいっぱい茂ってるというのですね。
今はいっぱい茂ってるけれども、時間がだんだんと春から
夏から秋というふうに時節が変わっていく。
そうすると、悉く衰落を見る。たちまち枯れて散っていく。
だから心ある同者は、そういう自然の様子を見てて諸行無
常を悟るといいますわね。
木の葉が散ってるのを見て、ああ無常を感じるというので
すね。


「生老死」

「生老死、及び愛別離苦」
病が抜けてますけど、生老死、及び愛別離苦。
生まれるということはめでたいということでなにも悪いこ
とじゃないではないかと思うのですが、これは知らないと
いうのですね、生まれるときの苦しみというのは忘れてる。
生まれる子供にとったらもの凄く苦しいんだというのです
よ。
産道を出てくるとき、お母さんのお腹から出てくるとき、
岩が剣立っているような所を裸で抜けていくときに、肌に
岩が突き刺さりながら出てくるという、そんな苦しみなん
だというのがお経にあるんですよ。
それは幸か不幸か忘れてますわね。然し苦しみであると。
それから老いの苦しみ。
それから死の苦しみ。
それから愛別離苦と。愛し合いながらいつまでも一緒に
生きたい
と、親も兄弟も含めて、何時までも何時までも生きたい
と思いながらも、これはどうしても別れなければならな
い。
これは絶対に別れる。

「是の如きは何人も免るる者無し。知り已りて勤修し」
これはもう皆、平等に。
死ぬまで別れなくても死ぬときは別れるんです。
生別死別と別れ方もいろいろありますけど、兎に角別れ
ていく。そういう苦しみがある。
こういうことを、死ぬまでにようく知って、常に一所懸
命仏道に努力して勤めているということですね。

「常に無常を念ぜば是の人命終の時に臨んで諸の苦痛無か
らん」
常に無常ということを頭から離れないよう念頭に置いてお
く。
そうしておけば、その人が命終のときに信心決定頂く。
ということは安らかにお迎え頂けるということですね。
無常ということを知ったらどうしても死後のことを用意し
ていかないといかんと、こうなってくるわけです。
そうすると信心ということになってくるわけですよね。
だから信心をどうしたら得られますかというと、兎に角何