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罪子、困惑する。

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 罪子にとって最も不可解だったのは、この後の《平良凛子》の動向だった。
 罪子は観察の経験から、現代、強姦にあった女性がとるその後の行動は三つだと考えていた。
 すなわち警察機関への訴え、泣き寝入り、自害の三つである。たとえ女性がどの選択肢を選ぼうとも、その心には悲哀、そして怒りが満ちていた。強姦という行為が、人の心にどれだけの爪痕を残すか理解していると思っていただけに、罪子は《平良凛子》の特異な心情に困惑した。
 
 動向だけを見れば、《平良凛子》がとったのは、泣き寝入り、という選択肢である。
 教師との一方的な行為を終えた《平良凛子》は、肌に付着している体液をハンカチで拭きとり、くしゃくしゃになっていた制服のシワをのばしてそそくさと身に着け、そのまま帰宅した。
 部屋に戻ってすぐ、制服のシワにアイロンをかけ、血が固まってこびりついてしまっていた下着を、見つからないところに処分する。いつものように、教科別に出された宿題と予習、復讐を済ませ、入浴後に就寝した。

 朝方、仕事を終えて帰宅した母親に食事を用意し、《平良凛子》は学校に出かける。性交の証拠を隠滅した後の《平良凛子》はあまりにも普段通りであった。罪子は困惑する。感情が、行動に出ていないだけなのだろうか。滅多に感じることのない好奇心を刺激された罪子は、《平良凛子》の精神を読むことにした。
 

 罪子達のような観察、記録者には、対象の精神を読むことが許可されていた。本来の目的は、悪事、善事に伴う感情を読み、その大きさによってポイントの増減をすることである。強い悪意はマイナスの下げ幅を増やし、強い善意はプラスの上げ幅を増やす。

 感情とはあくまでも行為に付随した時に初めて善悪の判定がなされるものであり、それ単独で点数をつけられるものではない。

 これは、罪子たち観察者の全員に共通する、加算減算における定義でありルールだった。しかし、罪子は時々、行為に付随しない場合でも人の心を読んだ。主に暇つぶし、手持無沙汰な時間をなくすための手段であったが、この時に限っては、純粋な興味であったといえるだろう。

 登校する《平良凛子》の心は、外見通りにいつもどおり、というわけではなかった。
 普段の、つまり昨日性行為を行う以前の《平良凛子》の心は、実に平穏なものだった。育ててくれる母親への感謝、良い成績をとること、率先して雑務を引き受けることで周囲から評価されることの喜び。一方でそれらを少し面倒くさいと感じる心。また、それを恥じる心。
 年頃の娘にしては善良で、少しおとなしめの、平凡でありふれた精神風景。しかし、凪いだ水面のように穏やかなその心の奥深くには、《平良凛子》自身すら気づかぬものが隠れていた。

 《平良凛子》の心の空白に、罪子は前々から気はついていた。平凡な生活、良識ある優等生の自分。私はこれでよい、と表面上の意識では強く肯定しているものの、なぜか満たされることのない心の渇望。何に向いているのかがわからない、迷ったままの強い欲望の存在を、《平良凛子》は、努めて意識しないように日々を暮らしていた。

 そして今、《平良凛子》の抱えていた空白には、ある毒々しい原色の、それでいて眩むほどに強い光を放つ感情が鎮座している。それは、穏やかだった《平良凛子》の心に波紋を広げ、波風を立て、やがてすべてを覆い尽くしつつあった。

 それは、恋であった。いや、果たしてその表現が本当に適切であるだろうか、罪子に判断しかねた。
 それは、恋というにはあまりにも爛れていて、愛というにはあまりにも強烈に偏っている。罪子は思考を重ねて、「偏愛」という言葉に行き着いた。
 あの性交を経て、《平良凛子》は中年の男性教師に、偏愛を抱き始めていたのだ。

 一夜あけて、学校で顔を合わせた男性教師は、誰もいない教室に《平良凛子》を呼び出し、まず昨日のことを誰かに他言していないかを尋ねてきた。もし、昨日のことが誰かに知られれば、ただでは済まない。妻と子に逃げられるどころか、職を失う可能性もある。そうなれば、一貫の終わりだ。
 逼迫した彼に対し、《平良凛子》は、いいえ、と答えた。その目は潤み、頬は熱を帯びている。目の前にいる女生徒の変わった様子に、男性教師は全く気がつかなかった。

 我が身の安全を確認し、男性教師は安堵のため息をつく。その不意を突き、《平良凛子》は自らその唇を彼に寄せた。頭一つ分ほど身長に差がある男性教師の首に細い腕をからめ、グッと引きよせる。呆気にとられている彼の唇に、自分のまだ誰にも奪われたことのない唇を押しあてる。そう、昨日の時点で、《平良凛子》は唇までは犯されていなかった。ファーストキスは、自分の意思でこの男に捧げたのだ。

 目を丸くする男性教師に、幾度か繰り返して唇を押しつける。唇と唇、ついばむようなその幼い接触にやきもきしたのか、やがて男性教師の方から舌を入れてきた。《平良凛子》は初めその感触に驚いたが、幾秒もしないうちに自ら舌を絡めるようになった。口腔内で相手の舌が動きまわるのを感じる。肉の壁をなぞるように撫で、唾液を貪るように吸引されると、息苦しさもあいまって意識が飛んでしまいそうになる。負けじと《平良凛子》も同様に相手の唇をむさぼった。どれだけの時間そうしていただろうか。口の端から漏れる唾液で首の回りがべたべたに濡れそぼってしまったころ、二人はようやく濡れた唇を離して、互いを見つめあっていた。

 「……先生、私の事好きなんですよね?」

 《平良凛子》の呟くような問いに、男性教師はウンウン、と二度頷いた。実際、男性教師は《平良凛子》の若く張りのある肉体と、派手さはないものの比較的整っている顔のつくりを気に入っていた。裏を返せば、彼の《平良凛子》に対する感情はそれだけだった、とも言える。大勢いる女生徒の中で《平良凛子》が狙われたのは、真面目でおとなしく聞き分けがよい故に、自分にも抵抗しなさそうだ、と男性教師が考えたからである。おそらく《平良凛子》がこの時求めていたであろう「愛」の感情は、このとき男性教師側には存在していなかった。罪子はそう推測している。

 しかし、《平良凛子》にそれがわかるべくもない。初めて異性からの「愛」を手に入れた彼女は、自分の感じていた空白を埋めるものが、それであったことを確信した。求められる悦び。考えてみれば、《平良凛子》は常にそれを追い続けていたのだ。雑務を引き受けるのは、クラスメイトや教師に必要とされるため、家事を進んでやるのは母親に必要とされるため。《平良凛子》はとにかく求められることに飢えていた。求められるのなら、それが純粋な愛であるか、単純な肉欲であるかなどは関係なかったのだ。


 「昨日のこと、誰にもいいませんから……だから、先生。先生の全部、私に下さいね」
作品名:罪子、困惑する。 作家名:pikipiki