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フイルムのない映画達 ♯01

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パンドラの拳



 或るボクサーの話。

 その男はかつて、自らの手で、自らの拳を潰した。狂ったようにブロック塀を殴り続ける事で、自分の拳の骨を粉々に砕いたらしい。もう十年も前の話だ。

 当時のトレーナー、今ではすっかり老人になってしまっている。昔を懐かしむように……いや思い返して呆れるように、男に言った。

「どうして、あの時お前は……世界すら狙えたはずの自分の拳を、潰しちまったんだ?」

 男は、幾重もの古傷で装飾されている右手の甲を見つめ、老人の問に答える。

「どの道俺は、きっとチャンプにはなれなかっただろう……自分の才能の限界が分かってしまったんだ。だからさ……ボクシングを辞めてしまいたかったんだよ」

 老人は、バーデンダーにスコッチのおかわりを頼んで、ため息をつく。

「だからって、どうして拳を潰す必要がある?」

 バーテンダーからグラスを受け取り、やおら呑み干す、そんな老人の刹那主義的飲み様を、好ましく観賞しながら、男は答える。

「……希望」

「……希望?」

 老人が、深いシワを一層深く刻む。そこに苦悩が見えた。隣に座る男にも同じたぐいの皺が見える。

「そう、希望……この拳に、希望が残っていた……それが辛かった……ひょっとして、チャンプになれるんじゃないかっていう希望がね……おかしな話だが、この拳に宿っていた希望……それこそが、俺の絶望の原因だったんだ」

「パンドラの匣だな……」

 ――パンドラ……確かギリシャ神話に出てくる女神の名前。

「どういう意味だい?」

 老人は答える。

「Boxingは、拳を握って造り出したboxをぶつけあって戦う競技だ……ボックス――ボクサーが握る拳――その匣の中には、パンドラという絶望が閉じ込められている……」

 恨めしげにグラスの底を見やり、続ける。

「……厄災の女神、パンドラ……かの女神が、神々の手によって匣に閉じ込められようとする時に、匣の中から何かの声がしたそうだ……その声は言った。『私を災いと一緒に閉じ込めるのは止めてください』……てな。畜生っ酒くれ!」

 堪りかねて老人は、スコッチを注文する。男は黙って、話の続きを待つ。

「んぐ……ぷはー……で?……あぁそう、パンドラの匣の話だったな。閉まりかけた匣の底から聞こえてきた声……『私を閉じ込めないでください……私は希望です』……絶望の女神と一緒に、匣の中に閉じ込められたものの正体……それは希望だったんだ」

 微かに笑い、力なく男、頷く。

「なるほど……」

 老人は、グラスを煽り、最後の一滴までもぐいと呑み干す。そして、その勢いの収まらぬまま、半ば責め立てるように男に言い放つ。

「で?カムバックしたいだと?一体どういうつもりなんだ?!俺をバカにしているのか?」

 老人、かつてのトレーナーは、ゼイゼイと呼吸を荒げ、カウンターに斜めに崩れ落ちながら、男を睨んでいる。

「……怒らないでくれよ……俺はな、今度こそチャンプを目指そうと思っているんだ」

 老人は一瞬、男が何を言っているのか分からずに硬直した。その後、弾けるように嘲笑った。しばらく嘲笑った。ひとしきり嘲笑ってから、老人が言う。

「は?チャンプを?お前が?……十年前、自分で自分の拳を砕いて、この世界から逃げ出しちまったお前が、チャンプを目指すだって?おいおい皆聞いておくれよ。この四十前の中年男、チャンピオンのホセに挑戦する気らしいぞ」

 酒場のあちこちから、失笑が漏れ聞こえてくる。冷やかしの指笛と拍手も付随して。

「俺は、本気だよ」

 男の目は迫真だった。

「ふざけるな!」

 グラスを床に叩きつける。硝子の弾ける音、静まり返る酒場。

「お前は、気力も体力もとうにピークを過ぎているじゃないか?十年前ならいざ知らず、どうして今になってその気になっちまったんだ?狂っちまったのか?」

 老人の言い分はもっともだった。だが、男は怯まず、こう言った。

「絶望……今の俺がホセに挑戦して勝てる確率なんて、絶望的なもんだろう……だからこそだ……だからこそ、俺は今、奴に挑戦しようと思っている……俺の体の奥底で渦を巻いている絶望ってやつ……そこから聞こえてくるんだ……そこに埋もれて、藻掻いている小さな存在の声が……その声はきっと……希望の声……希望が俺に助けを求めている声だ」

 老人は、まじまじと男を見る。

「絶望しきったら……今度は希望が湧いてきた……ってわけか?どうしてお前の性根ってやつは、そんなに捻くれちまってるんだ……」

 老人はボソリと言う。

「拳を見せてみろ」

 言われて男は、拳を突き出す。老人はそれを受け取り、両手で押し包むと、何度も何度も角度を変えながら、揉んだり捻ったりを繰り返す。

「どうだい?」

 男は誇らしげに言った。

「前よりも……厚みが増している……」

 男の拳に対する老人の感想。

「やれそうかい?」

 問われ、老人がギョロ目を剥く。

「死ぬぞ?現にホセは、一人殺している」

 ――去年のクリスマスの惨劇。

「俺は……殺されるために復活するわけじゃない……もしも奴との対戦で、死人が出るとしたら……それは……奴の方だ」

 老人が笑った。

「お前の絶望……それに賭けてみるのも面白いかもしれんな」

 バーテンダーが、黙って老人の前に、代わりのスコッチを置いた。

「おい!聞こえてただろ?」

 老人が睨みを利かせる。

「今日から俺は、カムバックする。当分酒は飲まねぇ」

 二人は連れ立ってバーを出て行った。

 酒場にいる誰かが言った。

「くたばり損ないの老いぼれトレーナーと峠を過ぎたロートルボクサー……お笑い種だよ。一体何ができるってんだ?」

 誰もが笑った。酒場の中が世界であるならば、世界中が笑った。

*****

 そんな彼らの嘲笑が

 その年のクリスマスには

 歓声に変わっている……かも知れない……

 握りしめたboxの闇から……希望の呻く声がする……