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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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第一話

 
   桜草










 桜草の出逢い

 そっと手を伸ばしても、小さな白い蝶は微動だにせず花に止まったままだ。明(ミヨン)姫(ヒ)は全身に神経を集め、できるだけ気配を殺して花に近づく。春の穏やかな陽射しが惜しげもなく降り注ぐ広大な庭園の一角、今を盛りと咲き誇る牡丹園と白き蝶―、まさに一幅の絵画にも匹敵する光景である。
 明姫には別に蝶を捕らえようなどという下心はなかった。ただ、ほんのいっとき、その可憐な蝶を手のひらに乗せ、眺めてみたいという少女らしい欲求にすぎなかった。
 第一、蝶を飼おうとしたところで、狭い虫籠に閉じ込めれば、生きていたところで、せいぜいが数日の生命だ。自然界に生きるものは伸びやかに自由に羽ばたくからこそ、生き生きとして美しい。その美しさ、生命を理不尽に奪う権利は誰にもない。
 できれば、ただ眺めるだけが良いのは判っていたけれど、明姫のその誘惑心をくすぐってやまないほど、その可憐な蝶は魅惑的だった。そう、丁度、今にも開こうとしている花の蕾のような彼女自身のように。
「良い子だから、あと少しだけ、そのまま、じっとしててね」
 呟き手を伸ばす。白い小さな手が蝶に触れようとしたまさにその瞬間、蝶はひらひらと舞い上がった。
「あっ」
 明姫は悲鳴じみた声を上げ、慌てて周囲を見回した。今は勤務の真っ最中、こんな場所で呑気に蝶と戯れていて良いはずがない。
 蘇明姫、当年とって十五歳になる。六歳で女官見習いとして宮中に上がり、今年で十年経った。大妃(テービ)に仕える崔尚宮(チェサングン)の許で女官としての心得や行儀作法・教養万端をみっちりと仕込まれ、去年の春に正式な女官と認められた。
「ああ、折角、あと少しで捕まえられるところだったのに」
 明姫は小さく舌を出し、また、慌てて周囲を窺う。幼い頃からのこの癖は幾ら崔尚宮に厳しくたしなめられても、一向に直らない。
―宮廷女官ともあろう者が下賤な者どものように舌を出すなどと、見苦しい。
 見つかる度に叱責されるのに、いまだに気を緩めると出てしまう。
 たとえ伯母と姪の間柄であろうが、謹厳実直を自他共にもって任ずる崔尚宮には関係のない話なのだ。そう、上司である崔尚宮は明姫にとっては血の繋がった伯母である。両親もいない今、天涯孤独の明姫にとっては、この世で数少ない肉親なのだ。
 明姫の父は捕盗庁(ポトチヨン)の副官だった。長官である従事(チヨンサ)官に準ずる役職である。が、父修基(スンギ)は明姫が六歳の冬に亡くなった。いや、父だけではない、母の玉彩(オクチェ)も同時に亡くなった。
 今でも時々、夜半の眠りのただ中に見る悪夢、あれは紛れもなく、あの夜の再現だった。真っ赤に燃え盛る焔、黒々とした夜空を不気味なほどに紅く染め上げていた―。その焔は明姫が慣れ親しんだすべてのものを飲み込み、跡形もなく灼き尽くした。優しかった両親、まだ乳飲み子にすぎなかった弟、母の次に大好きだった乳母、誠実に主人のために働いていた大勢の使用人が犠牲となったのだ。
 明姫が分別というものを身につける年頃になった時、崔尚宮がこっそりと教えてくれた。亡くなった当時、父は極秘裏に王命で何かを探っていたのだという。それは時の左議政(チャイジョン)という権力者に拘わることであり、左議政は時の王妃―今の大妃の実兄であった。
 今、その左議政は朝廷の臣下としては最高位の領議政(ヨンイジョン)にまで上り、妹は王の母、そして我が娘は現国王の正妃となっている。まさに国王の外戚として幅を効かせ、栄耀栄華を極めていた。
 父が探っていた領議政(当時は左議政)の罪について、伯母である崔尚宮は薄々は知っているらしいが、明姫に語ることはなかったし、また明姫も訊ねることはしなかった。
 今が領議政の天下である限り、これはけして口外できない。何故なら、明姫の両親もそのために殺されたのだから。それは同日同夜、父の上官である捕盗庁の長官までもが殺害されたことでも明白だった。時を同じくして、捕盗庁の長官と副官の屋敷が火事になり、しかも一族、使用人までの殆どが亡くなるなど、あまりに不自然すぎる。
 この火事で屋敷にいた大半の者が生命を落とした。明姫の他にはたった一人生き残った老齢の執事に背負われ、明姫は生命からがら屋敷を脱出したのだ。
 眼を閉じれば今も思い出す、あの無残な光景。火の粉を巻き上げながら燃えていた屋敷の中には父や母、幼い弟がいた。いや、その前に自分がこの眼で見たものをけして忘れはしない。
 部屋中に血飛沫が飛び散り、一瞬の中に息絶えた父や母の姿。何か異変を察して泣きわめく赤児の弟の口を塞いだ大きな手。
 そう、両親は火事で死んだのではない。焔に飲み込まれる前に殺されたのだ。黒装束に身を包んだ、どこの誰とも知れぬ輩たちが剣を振り上げ、一瞬の中に次々と屋敷の者たちの生命を奪っていった。それから逃れる前、屋敷に火を放ったのだ。
 あの夜の惨事はすべてが仕組まれたものだった。だからこそ、崔尚宮は幼い明姫によくよく言い聞かせた。
―お前はあの夜、何も見なかった、知らなかった。あの日、お前はお祖父さま、お祖母さまの許に遊びにきていたということになっています。ゆえに、くれぐれも軽はずみなことは口にせぬように。
 黒装束の賊たちが室に踏み込んできた時、明姫は一緒に眠っていた乳母の機転で衝立の背後に隠された。明姫は物陰で震えながら、乳母の断末魔の悲鳴を聞いた。賊たちが足音も荒く出ていった後、彼女の眼にしたのは部屋中を染めた乳母の血と血まみれで事切れた乳母だった。
 慌てて両親の部屋を訪れた時、まさに剣が二人の胸を刺し貫き、うす汚い手が幼い弟の口を塞ぐところであった。
 衝撃で声すら出なかった。ここで見つかれば、自分もあのように無残に殺されると本能的に悟り、明姫は扉を細く開けたまま零れ落ちる涙はそのままに小さな手で口を押さえ、懸命に嗚咽が洩れるのを防いだ。
 泣きながら廊下をさまよっているところ、生命からがら逃げ出した老執事と遭遇し、彼に背負われて逃げ出したのだ。執事はそのときの衝撃のせいもあったのか、それからほどなく病の床につき、亡くなったという。
 ほぼあい前後して捕盗庁の長官・副官の屋敷が火事となり、家族、使用人の大半が生命を落とした。そのあまりに不自然な事件は意外にも?不注意による火事?とされ、たいした取り調べもなく終わった。
 いや、調べる必要もなかったのだ。探られ明るみにされては困る罪を抱える者―左議政こそがすべてを仕組んだ大元であるとは判っていた。しかし、証拠は何もなく、また、左議政ほどの大物を敵に回したい者がいるはずもない。
 それはまた、当時の国王への左議政による牽制の意味もあったに違いない。
―私を甘くご覧になりますと、このような目に遭いますぞ。
 事実として、国王はそれ以降、左議政の罪を暴こうとするのを止めた。当然、左議政による生き残りに対しての追及はあった。明姫は事件の夜、直接、賊を見ているわけではない。が、副官の幼い娘が屋敷内のどこかに潜んでいたのは事実であった。