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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~Ⅰ

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 明姫は両親の死後、すべてを失い、祖父母の許に身を寄せた。母の両親が当時はまだ健在であり、そこに引き取られたのである。祖父は現役時代は中級官吏をしていたが、その頃には引退して屋敷で隠居生活を送っていた。
 しかし、左議政の追っ手はそこにまで魔手を伸ばしてきた。幼い明姫が人知れず紛れていた偽の女中に首を絞め殺されそうになったのを機に、崔尚宮が明姫を宮中に入れることに決めたのだ。祖父には二人の娘がいて、上が若くして女官となり、大妃付きの尚宮にまで出世した伯母、下が明姫の母であった。
―宮中にいれば、かえって、そなたの身は安全というもの。
 伯母の読みは正しかった。流石に国王の住まう宮殿では左議政も大それたことはできないと悟ったのだろう。更に、明姫が賊の姿を直接見ていないことも向こうを安心させたのか、以来、明姫が生命を狙われることはなかった。
 こうして月日は流れた。明姫は崔尚宮の許で女官としての基礎をみっちりと仕込まれ、正式な女官となったのである。
 左議政はこの九年間で領議政(ヨンイジョン)になり、まさに我が世の春を謳歌していた。が、天は彼の所業を見ているのか、事は思い通りにはなかなか運ばなかった。掌中の玉と愛でる一人娘を年若い国王の妃としたものの、結婚後七年を経ても、王妃に懐妊の兆はなかった。
 そのため、この度、有力両班(ヤンバン)の息女の中から新たな側室が選出されることになった。そうなると、国中の両班の娘で適齢期の者に対して禁婚令が発布される。無事に国王の新しい側室が決まるまで、結婚してはならないというお触れである。
 大臣たちが集まり、予め側室候補として名の上がった息女たちについて十分に吟味を重ねる。数名上がったお妃候補たちの面接試験も終わり、二人の息女が側室として内定した。
 一人は兵曹判書(ヒョンジョパンソ)の娘だというが、今ひとりはもちろん、領議政の息の掛かった娘である。領議政には娘が一人しかいないので、遠縁の娘を養女にして側室として納れる目算だった。
 二人の新しい妃たちは既に正式に入宮し、それぞれ殿舎を賜って側室としての待遇を受けている。
 領議政は両親の敵であった。むろん、憎くないはずがない。しかしながら、一介の女官にすぎない自分に何ができるだろう? 
 崔尚宮は幼い彼女にくどいくらいに言い聞かせてきた。
―良いですか、すべて忘れるのです。あの夜、起こった出来事はなかったこととして忘れ去りなさい。余計な復讐心など抱けば、今度こそ、そなたも亡き両親同様、闇から闇へと葬られるのですから。
 ただ一人生き残ったそなたの役目は無謀な仇討ちなどではない、家門の存続です。
 そのときだけは厳しい上司ではなく、伯母の瞳になって崔尚宮は告げた。
―実家は既に絶えたも同然ではあるが、そなたさえその気になれば、復興はできる。そなたが婿を迎えて家門を立て直せば、亡き両親も少しは浮かばれよう。
 遠縁の娘を養女にして国王に侍らせてまで、王の外戚になりたいのか。領議政の果てのない野望は怖ろしくもあり、また、愚かしくも思えた。人の世の栄華を極めたとて、所詮は一時の儚い夢。夏の早朝、蓮の葉の上に宿った露雫のようなものではないか。
 またたきするほどの間に、消えてなくなる。なのに、何故、人はそれほどまでに地位や財産に拘り執着するのだろう。父は、その領議政の野心について調べている中に、殺されたのだ。この世のありとあらゆるものを手にした領議政にとって、捕盗庁の副官にすぎなかっ父など、虫けら同然だったのだろう。顔の回りを飛び回ってうるさいから、目障りだから、殺された―ただ、それだけの理由で。
 ならば、伯母の言うように、復讐など所詮は意味のないものだ。一介の小娘に時の権力者を潰せるほどの力などあるはずもないし、いずれ天をも怖れぬ悪行の報いは必ずや彼に下るだろう。
 それよりも、虫けらだって、ちゃんと生きていけるのだと心意気を見せてやる方がよほど利口というものだ。一度は叩きつぶされたかに見えた家門を復興することこそが復讐であり、両親の無念を晴らすことになるはずだ。
 明姫は小さく首を振った。いけない、あの夜のことを考えまいとすればするほど、どうしても思い出してしまう。やはり、昨夜見た夢のせいだろうか。
 夜空を焦がし燃えていた紅蓮の焔、焔がぱっくりと口を開けた巨大な魔物のように屋敷を飲み込んでいた―。いつもの、あの夢。
 明姫は俄に悪寒を感じて、華奢な身体を震わせた。忽ちにして春のたけなわの長閑な庭園が色褪せた無味乾燥なものにしか見えなくなってしまう。
 いつのまにか白い蝶は消え去り、後には咲き誇る緋牡丹が風にひっそりと揺れているだけ。そこで、明姫は初めて我に返った。
「いけない、こんなことをしていては、また崔尚宮さまに叱られてしまう」
 宮中では、たとえ伯母と姪であろうが、そんなことは通用しない。殊に崔尚宮は身内であろうと容赦はない。失敗をすれば、即座に厳しい叱責を受けるし、時には罰も受ける。宮中には、明姫が崔尚宮の姪であると知る者はいない。何故なら、明姫は正確な素性を隠して宮仕えに出ているからだ。
 明姫は足許に置いてあった風呂敷包みを腕に抱えた。山吹色の風呂敷に包んだそれは、かなり重みがある。かれこれ四半刻余り前、宮中の書庫に行って、指定された数冊の書物を取ってくるようにと崔尚宮から言いつけられた明姫である。
 それらの書物は、王室の歴史を始祖太祖(テージヨ)に始まって現国王直宗まで綿々と綴ったものらしい。今、大妃殿では、新しい側室のためのお妃教育が始まっている。両班の息女だから、それなりの教養を身につけているが、これから更に磨きをかけるため、大妃自らが教育指南役として指導に当たるのである。
 そこまで大妃が熱心なのも、やはり兄である領議政に頼まれてのものだろう。現に、今ひとりの兵曹判書の娘に対しては、そのような気遣いは見せてはいない。
「国王殿下のお妃になるっていうのも、楽じゃないわよねぇ」
 明姫は肩を竦め、いささか持ち重りのしすぎる感のある書物を〝よいしょ〟と抱え直す。
「これだけの内容を頭に詰め込むなんて、私なんか到底、駄目。考えただけで、身体中がかゆくなりそうだわ」
 自慢ではないが、学問は苦手である。その点では明姫はずっと崔直宮を悩ませてきた。
―少なくとも、その自覚はあるつもりだ。
 伽耶琴(カヤグム)など、楽器を扱うのには長けているが、机上の学問とか暗記となると、からきし駄目。要するに、勉強より実践に向いているという典型的なタイプである。
「両班家の娘として生まれるのも幸せかどうか判らないってことね」
 思わず正直な気持ちが零れ出る。
 自分などは、たとえ父が健在で家門が存続していたとしても、間違ってもお妃になんてなるはずもない。
 父には野心というものはまるでなく、日々の勤務に没頭するのが生き甲斐という至って真面目な男であった。また、先祖代々、中級官吏止まりの我が家は、国王の妃を出すという家柄ではない。