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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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一縷(いちる)の望(のぞみ)
第一部 朝元
第一章 遣唐使
玉(たま)藻(も)刈(か)る沖(おき)辺(へ)は漕(こ)がじ敷??(しきたえ)の枕(まくら)の辺忘れ(あたりわす)かねつも (藤原宇合(うまかい)作、万葉集所収)
 どこか遠くで歌う声が聞こえる、私を悪夢から引き上げてくれる声が。ぼんやりとしながら目を開けると、夢の中の様に大きな男が立っていました。その時、靄を晴らすかの様な大きな声が、その大男から発せらたのです。
「おや、お若い方、お起きなされてしまわれたか。呟いた積りでいたが、地声が大きくてな。いや、済まん、済まん。」
 寝起きでぼんやりしていた頭が、これですっきり致しました。
「これは副使様、申し訳御座いません。」
 時は養老元(七一七)年九月の夜更けのことで御座います。副使と呼び申し上げましたのは藤原宇合様と仰いまして、右大臣藤原不比等様の三男で、昨年遣唐使の副使を拝命されて入唐され、無事使命を果たして帰路の船の中に今乗っていると云う訳で御座います。宇合様は髭の無い貴族の御曹司らしいのっぺりとした長い顔を酔って赤くされながら、朝服を着崩していらっしゃいました。
「朝元(あさもと)よ、遣唐使の旅には珍しい凪とは言え(当時の日本の造船技術は遅れており、遣唐使船は難破する方が当たり前だった。その主な原因は、遣唐使船は竜骨が無く、船底が平らなことであった)、初めて海に出る者が揺れる船の上で居眠りとは、さすがは海の一族の血は争えぬな。」
 申し遅れましたが、私の名は秦朝元と申す医師の卵で御座います。これからしばらく皆様の時間をお借りして、我が一族秦氏の二つの悲願を達成すべく期待を込められた様々な人々の事について語り挙げたく存じます。またこの話をご覧になる時、秦氏が相争う二つの勢力が分かれていることに、私は注意して頂きたく思うのでした。その一つは藤原氏を後ろ盾にして、この国の政治を左右しようと云う我らの様な中央志向の者達と、もう一方は、同胞としてこの国に我らより古くから来ていた物部氏と共に地方にあって、中央に抗い続ける蝦夷を代表とする様な方々なので御座います。
 私はまだ元服を済ませたばかりですが、兄の朝慶と共に本草学や漢方、鍼灸の術を極め、しかも我が一族にのみ伝わる医術をも会得していました。父は、これから行く倭の国(当時既に「日本国」と云う呼称が使われていたが、日本以外の国ではまだ「倭」と呼んでいたものと考える)の豪族秦氏の出の秦弁正という名の玄学(老子・荘子・周易に基づく学問)僧で御座います。私とは逆に倭の国から唐の国へと参りましたが、手慰みであった囲碁の才を時の玄宗皇帝に見出されてそれを生業となし、また唐人の娘と見合って兄朝慶と私の二人の子を儲けました。私がこうして倭を目指して帰路の遣唐使船に乗り込んでいるのは、倭の一族への父からの文(ふみ)を渡す為でもありましたが、後述します様にごく個人的な用件もあったのでした。また我ら秦の一族の「ハタ」という読みは、新羅の言葉で「海」と言う意味で、宇合様の発言にも有ります様に倭の国では新羅語の意味も当たり前の様に解されているので御座います。私の方は、剃髪に唐の白い浄衣(じょうえ)(今の作務衣の様なもの)と袴(今のズボンの様なもの)を着ていて、これが唐の医者の格好でもありました。また、同士である留学生(るがくしょう)(長期留学生)の道慈法師様や日本からの迎えの秦大麻呂も、四つある遣唐使船の内私とは違う船に乗っておりまして、共に帰朝することとなっております。
「今、歌の様なものが聞こえましたが、あれは副使様でいらっしゃいましたか?」
 そう言いながら、私が揺れる船の中ですくっと立ち上がりました。私は当時まだ十四歳でしたが、立ち上がると、身体の大きなもう二十四、五にはなられる宇合様を失礼にも見下げる様な形となってしまい、慌てて私はその場に跪いたのです。宇合様は私の態度に気付きながら知らない振りをなさって、少し照れくさそうに返事をなさいました。 
「や、あれを聞かれていたのか、これはしくじった。」
「何と仰っていたのですか? 私はまどろんでいて良く聞き取れませんでしたので、良ければもう一度お聞かせ下さい。」
 宇合様はなおも照れくさそうに笑いながら、平瓶(ひらか)(酒器)を手に持ったままゆっくりと甲板に腰を下ろして胡坐を掻き、波音に負けぬ様な大きな声でもう一度歌をお聞かせ下さいました。
「玉藻刈る沖辺は漕がじ敷??の枕の辺忘れかねつも。」
 しかし、倭の言葉は以前より倭生まれの侍女(現在の妻)に教わっていましたが、歌と言うのは何やら裏の意味があるらしく、どう考えても歌の意が私には通じませんでした。
「済みませぬ。私は歌の意までは分り兼ねますので、後学の為に今の歌意をお教え下さりませぬか?」
 宇合様は月明かりの中でもはっきりと顔を赤くさせながら、こう仰いました。
「玉藻は海の草のことじゃ。敷??は寝乱れた夜具のこと。私が日本国にいた頃まだ十三、四の元服前、難波への行幸にお供した時、生まれて初めて女子(おなご)をあてがわれたことを歌ったものじゃ。初航海でぐっすり寝ているそなたを見て、ふとお主(ぬし)と同じ齢の頃のことを思い出しての。私は身体が頑丈故、藤原の一族の中でも武門の道を志すように期待されておるが、実際はこの様に歌や漢詩も好きなのだ。似合わないであろう。」
「いえ、そんなことは御座いません。ご教授有難う御座いました。私の様な者のことを見て歌を詠んで頂き、お恥ずかしゅう御座います。」
「いや何、堅苦しい話は抜きじゃ。お主がくれた塩辛納豆もまだ残っておる。半月も綺麗だし、飲み直そうではないか、だいたいこんな揺れる船の上では、お主の得意な囲碁も出来まい。せいぜい私の様に下手な歌を捻るか、酒を飲む位しか仕事は無かろう。さあ、平瓶を取れ。」
「では頂きますが、私は不調法な者で、酒等と云うものは、急遽挙げた元服を兼ねた結婚式以来ですので、あまりお付き合いは出来ぬとは思いますが。」
「良い良い、それにしてもこの塩辛納豆と言うのは唐の酒に合うな。ところで、奥方もお起ししてしまった様じゃ。こちらに来て酌などしてくれぬか?」