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八尋 慶一
八尋 慶一
novelistID. 46050
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ビル、そしてメメント・モリ

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僕は巨大なビルの前に立ち尽くしていた。
 僕は実際にビルの前に立ち尽くしていたのだけれど、不意にそれが現実性を失った、想像上のヴィジョンであるような錯覚に陥った。それは冷静に考えてみるなら、僕がビルを求めていなかったから、というなによりの証拠ではないか、と思う。僕はビルを求めていなかったし、また同時にビルのほうもぜんぜん僕なんかを求めてはいなかった。僕はビルに対してほとんどなにもできやしないだろう、という確信にちかいものがあった。ビルは僕を見下ろしていたけれど、僕には単なる線の集合があつまっただけのオブジェにしか見えなかった。僕はそのビルの前で強烈な孤独感を感じていた。この線の集合に対し、僕はなにひとつ有効な手段をもって立ち向かうことなんてできやしないんだ、とふたたび確信した。
 そこのビルの手前には、リトル・リーグの一チームががキャッチボールを行うことができるくらいの空間があった。だが、その固い地面を踏みしめる人々は、一様に昨晩の夢でも思い出すような顔をして、足早にただ通過していった。その空間は、彼らにとってはその程度の意味しか持たないようだった。
 僕は思わずその場に座り込みそうになった。だけど思いとどまり、すこし離れた場所に設置されていたベンチに腰掛けた。ベンチには人間が横たわることができないように手すりがとりつけられていて、僕にはそれが長居を求めていないベンチの意思であるように感じられた。黒やグレーの服を着た人々が僕の脇をすり抜けてビルの中へと消えていった。逆に、ビルから出てきた人々は僕の脇をすり抜けて、どこか別の場所へと消えていった。誰も僕に注意を向けようとはしなかった。僕は人々にとってはほとんどベンチと同じくらいのものだったのだ。時折僕の脇をすり抜けるサラリーマンのうちの一人が、僕に侮蔑にも似た視線をぶつけることがあった。僕はそのたびにしんしんとただ心が冷えていくのを感じた。それは傘をささずに道を歩いていくのといくらか似ていた。だんだん、濡れていることに慣れていく。冷えていっても、むしろそれが身体に馴染んでいく。

 慣れていく。だが、それは僕が求めているものだ。

 考えなければならないことはいくらでもあった。考えなくてはならない人のことが、いくらでも。しかし、今の僕にはそういった時間は荒野の砂塵のようにいくらでもあふれていた。僕は心の傷をそっとナイフの峰で撫で付けるように、じっくりとビルのラインを目でなぞっていた。
 僕の視線は、ビルをゆっくりと時間をかけてなぞっていき、空へ移る。空をまたじっくりと時間をかけて眺め、地上へ戻る。どんな音楽も、どんな物語も、どんな風景も僕には必要はなかった。そんな偽善を含んだ人為的なセラピーよりも、もっと形而上的で、冷酷で、システマティックななにかを欲していた。たとえば人々の無関心さ、幾何学的な線の集合、それらを支配するワンパターンな革靴の音。それに身を浸すことをただ望んでいた。そんな状態がいつまで続くかはわからなかった。ただ望んでいた。
 不意に、目の端に異物をとらえる。僕の目線の先に、この場にはふさわしくない、別のマテリアルを感じる。黒い服を着た少女が、フリースのポケットに手を突っ込んで、じっとこちらを見つめていた。

 少女の存在にはすでに数日前から気付いていた。黒のフリースにスカートという繁華街においてはいささか地味な服装とはいえ、こんなオフィス街では雪原にまよいこんだカラスみたいに目立っていた。少女は女子高生がよくそうするように、こちらを上目遣いにちらちら見ながら、携帯電話をいじっていた。僕はなるべくその存在を無視して、心をからっぽにすることに努めた。再度少女と目が合うと、少女は舌打ちするように顔の右半分だけかすかに歪めて、どこかへと去っていった。僕はそれすらも風景の一部として認識し、ぼんやりと彼女を見送っていた。
 どれくらいの時間、そうしていたかわからない。あるいは、肉体が覚醒したまま眠っていたのかもしれない。僕は視界に真由美をとらえていた。真由美は昔からそうであるように、迷いのない足取りでこちらに直進してくる。表情にはいらだった様子はなく、きわめてビジネス・ライクだった。おそらく、どのような場面においても彼女はそのように行動するのだろう。僕は無表情に彼女のつま先を目で追っていた。
「またここにいるのね」
 真由美は表情を変えず、アクセントだけであきれたようなニュアンスをつくってそう言った。実際、あきれているのだろう。僕はゆらゆらと首を横に振ってみせた。
「いつまでこんな生活続けるつもり?」
「うまく心が整理できないんだ。起こったことのほとんどのケースに。遠い国で起きた全く関係のない物事のような気がする」
 起こったことのほとんどのケースに、という部分だけ、僕はトーンを落とした。真由美は表情を崩さなかった。
「でも、あなたは自分の意思で会社を辞めたのよ。半年ももたなかったわね。でも誰にさせられたんでもないでしょう。あなた自身が決めたことなのよ。誰の責任でもないわ」
「合わなかったんだ、あそこは。僕がいるべき場所じゃなかった。向こうも、僕なんかを求めてやしなかっただろうさ。お互いに、住む場所が根本的にちがったんだ。もともと、出会うべきじゃあなかったんだよ」
「それは多かれ少なかれ、誰でも感じることよ。あなただけじゃないのよ。それにもしそうなら、どうしてここにいるわけ?」
 僕は地面を見つめたまま、言葉を探すふりをした。僕のいまの、ほんとうの心情を言葉で表すのは困難だったし、またそうするわけにはいかなかった。
「インプットに耐えられないんだ。いつもどこかでなにかが起こっている。事件のミニチュア版みたいなもので、ここではなにも起きない、なにひとつ起きない。ステレオ・タイプの朝がやってきて、凡庸な日常がはじまるんだ。少なくとも僕にとっては」
「ねえ、強くなってよ。これじゃ昔となんにも変わらないじゃない」
「強くなったよ。これでも」
「それで、いつまでつづけるつもり」
「じきに終わるよ。数日中にカタをつける。今はただ、整理をしたいんだ。区切りがついたらすぐに動く。でも今は駄目なんだ」
「わかったわ、数日、ね。よく覚えておくわ」
「本当にお前は変わらないな、昔から」
 真由美に言われたようにいい返すと、真由美はかすかに眉をひそめた。
 変わったわよ、これでも、と言って真由美ははじめて表情を崩した。僕はそんなふうにあきれた顔を見せる彼女が嫌いではなかった。すくなくとも、すべてを事務的に処理しようとするいつもの彼女よりは、ずっとよかった。
「じゃあ、あたしはもう行くわ。それで、さっきの。約束よ」
 真由美はそういって腕時計を一瞥し、消えていった。僕は別れ際になんて言葉をかけたらいいのか、よくわからなかった。心の中でどう思えばいいのかさえ。感謝をするべきなのか、悪態をつけばいいのか。
 だが、僕は知っていた。すべてを解決する一番いい方法がある。真由美に心から謝り、もう二度と会わないということだ。
 おそらく、それが一番、彼女のためになるだろう。