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現代詩の記号論

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 それに対して、2.3.1、2.3.2で見てきた「コードを逸脱する表現」は、慣習的に自動化された記号作用をすることができない。2.3.1のEx1では、それまでにない新しい共示義が創出されているわけだし、Ex2では新しい記号が創出されている。2.3.2で挙げた例では、語の文法的範疇が変更されている。読者は、詩人が提示する記号表現に対して、慣習的に固定した記号内容を付与することができない。コードを逸脱する記号表現を前にして、読者は、「記号内容的なもの」すなわち「解釈の可能性の広がり」を心に抱くだけであり、即座には記号内容を特定することはできないのである。
 コードに従う記号表現(CSとする)においては、慣習的に固定された記号内容が前面に出てきて、解釈の可能性の広がりはほとんど無視されていた。しかし、コードを逸脱する記号表現(ACSとする)においては、固定した記号内容がないために、解釈の可能性の広がりが前面に出てくる。しかもCSたとえば「雪が降る」においては、解釈は、固定された意味を中心にその細部を充填していく作業であるのに対して、ACSたとえば「船粒」においては、そもそも中心的な意味などなく、すべての解釈は原則として相対的である。Ex2aとして紹介した「船粒」は、「船の本質を粒状に凝縮したもの」という解釈のほかにも、たとえば「船を構成する原子・分子」、などの解釈を許容し、それらの解釈はどれが中心的というわけでもなく、原則的に等位である。
 ACSでは解釈の可能性の広がりが前面に出てきて、そのあいまいさ、含蓄の深さが読者に独特の情緒的作用を及ぼすことがある(場合によっては美感を喚起する)。たとえば「時間を抜けおちる光」を読むと、読者は解釈の可能性の広がり(これはしばしば「豊穣である」と感じられる)に直面し、分からないなりにもなんとなく「いいなあ」と思う。詩人が意味論的コードを拡張したり統辞論的コードを逸脱したりするのは、言葉になりにくいものを言葉にしようとするためでもあるが、読者の「いいなあ」という反応を得るためでもある。


2.3.4.「世界の法則」というコード

 よく判断できなかったが、彼女らは、何かかすかな歓喜に酔っているらしい。かわるがわる、交替しては、殺し合っているのだ。
 ひとりが痙攣しながら死ぬと、次は、生き残った娘が、死んだ娘に、胸を切り裂かれる。剃刀が閃めき、麻縄が舞い、やがて、彼女らは、ぼろのように、ちりぢりに散乱して、雪に埋まったのである。

粕谷栄市の「犯罪」から引用。ここでは、死人が人を殺している。「死人が人を殺す」においては、「死人」に特に新しい共示義が付加されたわけではないし、新しい記号が創造されているわけでもない。だから意味論的コードは拡張されていない。また、「死人が人を殺す」は、主語−目的語−動詞という定型的な語の結合規則に従っているので、そこに統辞論的コードの逸脱・創造があるわけでもない。さらに、死人も人である以上論理的には行動できるので、選択制限が破られているわけでもない。だから、言語の次元ではこの表現はなんら問題はない。
 だが、我々の常識から言って、死人が人を殺すことなどありえない。それは自然法則に反することである。「死人が人を殺す」という出来事は、言語の側から禁止されるのではなく、世界の側から禁止されるのである。
 我々の現実は、自然法則や人間関係の法則などによって規律されている。それらの法則を「世界の法則」と呼ぼう。世界の法則もまた、テクストを規律するコードとして働く。現実にありえる出来事は許容されるが、現実にありえない出来事は、原則として世界の法則により禁止される。これは言語が要請するコードではなく、世界が要請するコードである。
 世界の法則が破られるときに現れる世界は、現実存在しえないが、論理的には存在しうる。そこでは現実と論理が激しく対立する。読者はその対立に身をおきながら、新奇な世界の現出に胸をときめかせる。世界の法則というコードを破ることによっても、読者に情緒的興奮を与えることができるのだ。



作品名:現代詩の記号論 作家名:Beamte