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現代詩の記号論

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 次に、今の引用部は、雨が降っていて、乗用車が走っていて、その屋根の上に植物が繁殖している、そんな情景(T2)を伝えているのだといえる。この情景は、現実に対応物を持たない虚構であっても良い。つまり真でなくても良い。そのような情景があたかも真実のものであるかのように、我々に迫ってくれば良いのである。だが、詩における情景描写は所詮言語を超えるものではない。分析者は原則として、内容的分析によってその詩においてどのような情景や心情が語られているのかが分かる。文字通りの意味をなぞればよいのである。
 だが、T2の場合も分析の限界がある。たとえば、詩人が情景に仮託してなんらかの心情を伝えようとしている場合である。この場合も、分析者は不十分な解釈しかできない可能性がある。
 最後に、T3の場合について。引用部において、雨や乗用車や植物の情景は、ある種の切迫感を持って鑑賞者に迫ってくる。一方、世界や生についての重大な真実もまた、それを発見した者に対して切迫感をもって迫ってくる。この切迫感という点において、情景描写も真実の発見も共通するのである。それゆえ、情景描写が切迫感を持つとき、鑑賞者は、そこにあたかも真実を見たかのような感情(真実感)を抱くことになるのだ。
 また、引用部においては、非現実的な描写により美が実現されている。この美の感覚もまた、ある程度の強度を備えるとき、人が重大な真実を発見したときに抱く感情に似た、目覚しい感情を鑑賞者に与える。それゆえ、詩の誘発する美の感覚が一定以上の強度を持つとき、鑑賞者はそこにあたかも真実を見たかのような感情(真実感)を抱くことになるのである。
 だから、我々が芸術作品に接して真実感を抱くとき、実は切迫感や美感を通じて真実を見たように錯覚しているだけで、本当に真実を見ているわけではないことも十分考えられる。この場合我々は真実なき真実感を抱いているわけで、真実がないのだから、原理的に真実を知ることは不可能である。あえて真実に対応するものを挙げるとするならば、それは作品の性質やそれに喚起された鑑賞者のイメージなどである。それらが真実感を引き起こしているからである。ところが、作品の性質やそれに喚起された鑑賞者のイメージなどは複雑に絡み合いながら我々に真実感を喚起しているので、どの性質やイメージがどのように真実感に寄与しているのか知るのは容易ではない。
 このように、何がどのように真実感を引き起こしているのかを分析するのは容易ではない。ここにも分析の限界がある。
 これでだいたいC2の内実が明らかになったのではないだろうか。すなわち、

 C2a.多様な解釈を許す表現に直面したとき、分析者は、解釈の可能性全体の大きな広がり(真実)に直面する。だが、分析では、可能な解釈のすべてを明らかにすることはできない。よって、分析は、真実の全体を把捉することができない。
 C2b.作品は、切迫感や美感を通じて、読者に、真実感を抱かせる。だが、真実感は、作品の性質やそれが喚起するイメージなどが複雑に絡み合って読者に誘発するものであるから、真実感の原因を分析するのは容易ではない。

 確かに分析によっては解釈のすべての可能性をとらえることはできないし、真実感の原因を完全にとらえることもできない。そこに分析の限界がある。その点、詩について文学的に含蓄深く書けば、解釈の可能性のうちの広い部分をカバーできるかもしれないし、読者に美感を与えることで、自分の感じた真実感をある程度読者に伝えることができるかもしれない(詩に関する文学的言説については、紙幅の関係上、本稿では深く立ち入らない)。
 だが、だからといって、詩の分析は無意味なものとして排斥してよい、ということにはならない。分析には確かに限界があるが、その反面で積極的意義もある。分析するということは、理解するということである。詩に接するとき、我々には、鑑賞者として詩を情緒的に楽しみたいという欲求が第一次的にある。だが、詩を多く読んでいくにつれて、自然と、分析者として詩を理解したいという欲求も第二次的に生まれてくる。詩に対して誠実であろうとするならば、すなわち、詩の全存在を受け止めようとするならば、読者は単に詩を楽しむだけでなく、必然的にその構造や意味や機能などを分析することに導かれてゆくはずだ。人間は情緒的な楽しみだけでなく理性的な楽しみをも欲する。詩を理性的にも楽しむことによって、初めて詩に対して完全に誠実であることができるのである。詩は分析されることを求めているのだ。たとえその分析が不完全なものであっても。



1.3.詩を論ずることの意義

 詩学に対するひとつの批判として詩学屍体解剖説を取り上げ、その批判の具体的内容を1.2.2で見た。そして、それに対してどのような反批判が可能かを1.2.3で見た。それらを踏まえた上で、詩を論ずることの意義を考えてみよう。
 C1に対する反批判で述べたように、分析の価値をはかるために、鑑賞の価値をはかる尺度を持ち出してはならない。だから、分析の価値を「情緒的効果が伴っているか」という尺度ではかってはならない。では、分析の価値はどのような尺度ではかればよいのだろうか。
 分析の価値は、それによって詩がどれだけ詳細に、統一的に、重層的に、発見的に、構造的に、論理的に理解できたかによってはかられるべきだと私は考える。分析は理性的な理解を目的とするからである。
 こう考えたとき、理論的分析すなわち何らかの理論を前提とした分析が、重要であることが分かる。なんとなれば、理論的分析は、詩を統一的・重層的・発見的・構造的・論理的に理解することが可能だからである。ただし、我々の認識は、理論が単純であることを要請する(そのほうが理解しやすいから)ので、理論的分析は詳細な分析にはそれほど適していないかもしれない。だが、理論的分析と個別的で詳細な分析を組み合わせることによって、理論的分析のみに依拠した場合の欠点を補うことはできる。そして、C2の反批判で述べたように、詩が分析を求めている以上、このような分析的態度は詩に対する誠実さに他ならない。確かに分析には限界があるが、我々は分析せずにはいられないのである。
 詩を理論的に分析することにより、我々は、詩を統一的・重層的・発見的・構造的・論理的に理解することができる。これが詩を論ずることの意義である。我々は詩に多く接してゆく中で自然とこのような分析を欲することになる。また、詩が我々に対してその全存在(構造・意味・機能などを含む)を投げかけてくるのならば、分析は、詩を誠実に受け止めるひとつのやり方でもある。もちろん分析には限界があるが、限界があるからといって無意味であるということにはならない。自然科学は自然界を完全に記述することはできないが、だからといって自然科学が無意味であるということにはならない。事情はそれと同じである。



作品名:現代詩の記号論 作家名:Beamte