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稀代の目利きが愛したカントリー・ジェントルマン

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稀代の目利きが愛したカントリー・ジェントルマン




白洲正子のことは、その著書などを通じて、よくご存知の方も多いと思いますが、名前は聞くけど、その稀代の目利きに一目惚れされた旦那の白州次郎って一体何者やねんと、言われるとふと言葉につまります。それくらいつかみどころのないというか、良く言えばその恵まれた体躯以上に別の意味でも大きな男でございました。あまり一所(ひとところ)落ち着かないというか、戦後史的にも色んなところに顔を出しすぎているというか、一言で政治家と財界人とかとは言えない男でございます。有名な文芸評論家の小林秀雄が次郎に隠居って英語でなんていうんだと尋ねますと「カントリー・ジェントルマン」だと応えたそうでございます。若くしてイギリスのケンブリッジに留学していた次郎は、よく「ノブレス・オブリッジ」という言葉を口にしたといいます。イギリスの貴族は、平時は自分の領地でのんびりと暮しているが、いざ国の危機となると一番に駆けつけるものだ、というのがその意味です。国内では誰よりも早く日米開戦、そして敗戦、その後の国の貧困と食糧難を予想していた次郎は国策会社とされると、それなら経営陣は必要ないだろうと旧日本水産の取締役を投げ出して、田舎で、現在の町田市の鶴川で百姓を始めます。そして、そのベース・キャンプを維持しつつも占領下で百戦錬磨の活躍をすることとなるのでございます。
 彼は芦屋で白洲商会という大商社の次男として生まれます。そして全国でも屈指の名門進学校である神戸一中、現在の神戸高校に進学しますが成績は並程度だったといいます。次郎はこの高校の卒業生が軒並み一校や三校に進み東京や京都の帝国大学に進むという風潮に嫌気がさしていました。先生の教えることをそのまま答案にすることがそんなに偉いのか、と常々思っておりました。そんな彼を変えたのはやはりイギリスのケンブリッジでの教育だったと思われます。中学での成績が思わしくなかった次郎を父、文平(ふみひら)はケンブリッジに留学させることにいたします。そのケンブリッジのクレアカレッジで当初は最下等の成績だった次郎でしたが、ある逸話とともに勉学に奮起をし始めます。電子の発見で有名なJ.J.トムソンという超有名教授のクラスで試験を受けた際、教わったことを徹底的に復習していた次郎はテストの結果に自信を持っていた。しかし返ってきた点数はさんざんで、しかも「君の答案には君の考えが一つもない」と書かれておりました。次郎は「これこそが俺が日本で思っていたことじゃないか」と身体中に電流が流れたかのような思いをしたのでございます。その後の次郎を育んだのは、十九歳から、国際恐慌によって白洲商会が倒産し帰国を余儀なくさせた二十六歳までに渡るケンブリッジでの生活ではなかったかと思われます。それが日本人離れしたその体躯とともにダンディな外国人、特に語弊はありますがイギリス人が感じている卑しいアメリカ人と徹底的に筋の通った交渉をした白洲次郎の原点とも言えるでしょう。
 帰国後、次郎は正子と出会って半年で結婚。正子の父、樺山愛輔が大久保利通の次男である牧野伸顕と懇意ということもあり吉田茂と知り合うこととあいなります。吉田は外務省官僚でありながら、当時の軍部とまっこうからやりあう硬骨漢で、ドイツとの協定に大反対でした。旧友の紹介と妻の正子の実家、樺山家との関係で、近衛文麿とも近づきになっていた白洲は、それを後ろ盾に吉田を中心とした「吉田反戦グループ、いわゆるヨハンセングループ」と軍部から揶揄される一員となります。
 外務省で同期であった広田弘毅が組閣の時に吉田茂を外務大臣にしようとしますが軍部に大反対され、結局吉田は駐英日本大使となります。その頃の軍部の力の大きさを示す好例でもありましょう。そのすぐあと、「日独防共協定」にただ一人反対をしたのも吉田大使でございました。
 日本を離れ一人浮いた存在として苛立っていた吉田のところに、日本水産の取締役として缶詰や鯨油をヨーロッパ各国にセールスに回っていた次郎がよく顔を出したそうでございます。ロンドンではいつも次郎は大使館に泊まり、夜中まで二人でビリヤードに興じていたそうでございます。外務省で力を失った、その頃の吉田に近づくことは次郎自身にとって当時の人生の得策であったとは、とても思えません。どんな妨害を前にしても、あくまでも自身の考えを変えない頑固爺イの吉田のことを次郎は本当に好きだったのだとしか思えません。
 次郎は吉田の妻、雪子にも好かれていて、ある日、彼女から吉田が目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた三女の和子の結婚相手を捜してくれと頼まれます。それで次郎がみつけてきたのが麻生興行社長だった麻生太賀吉でございました。今の総理大臣、太郎氏の父親でございます。後年、吉田は「銀行に行くといつも金が引き出せた。浅生が入れていてくれたのだろう」といったほど、政治家、吉田茂の経済面を麻生家が支えることとなったのでありました。
 外務省の中で松岡の息のかかった、いわゆる親ドイツ派である、枢軸派が力を強める中、吉田はドンキホーテ的な存在にすらなったと言っていい状態でした。そうした失意の中、帰国した吉田は、今度はなんとしても日独伊三国軍同盟の締結を阻止しようと考えます。
しかし同盟は締結され、昭和十六年十二月八日、真珠湾で戦いの火蓋は切られたのでございました。

 そして昭和二十年八月十五日を迎えます。敗戦までの間、次郎は鶴川村で百姓をしておりました。次郎三十四歳の夏のことでございました。そしてカントリー・ジェントルマンは動き始めます。東久邇宮稔彦王内閣の国務大臣に就任した近衛文麿に「俺にアメリカとの折衝役をやらせてくれ」と頼み込むが慎重な近衛は、この次郎の希望を聞き入れませんでした。
勇躍来日したマッカーサーが、とんでもない、明らかな軍政と言ってもいい布告を準備していたのです。東久邇首相は、これを絶対に阻止すべく重光葵外相たちが必死にGHQを説得、なんとか撤回させたのはいいが、その重光がそれらの経緯をマスコミに漏らしてしまった。誇り高きマッカーサーは激怒。重光は辞任の上、公職追放、さらには巣鴨プリズンに送られてしまいます。 
この期を次郎は逃さなかった。近衛に東久邇にたいして重光の後任の外相を強引に吉田茂を推薦させたのだ。結局は不起訴になったのだが、吉田は敗戦直前に戦犯として代々木の陸軍刑務所に収監されていた。囚人がいきなり大臣とは、吉田も強運の男である。そして次郎は「吉田のジィさんなら、必ず俺を使う」と踏んでいた。
 その後、国務大臣の罷免問題から東久邇内閣は総辞職。そのあとを次いだのが幣原喜重郎でありました。このとき七十三歳だったが、英語ができ、親英米派であることから吉田が引っ張り出したのだった。そして吉田は幣原首相の下で引き続き外相を務めることになりました。