小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

青は藍より出でて、藍より青し(前編)

INDEX|2ページ/5ページ|

次のページ前のページ
 

亜衣が行ってしまうと、青菜を洗っていたお連が顔を上げ、苦笑しながら丈ノ進に話しかけてきた。
お連は40過ぎの大年増で、でっぷりと肥え、浅黒い肌をしている。江戸の女の特徴なのか、人の世話をするのが3度の飯より大好きで、家事に不慣れな亜衣の面倒もすすんでみてくれているから、この数日で、彼女の事は実の娘のように可愛がっていた。それゆえ、愛想の無さすぎる亭主に小言を言いたくなったのだろう。
「なんだい、先生。もう少し優しくしてやりなよ。素直でいい娘じゃないか。」
長屋住まいの女房らしくあけすけな物言いをするが、倅の半太が丈ノ進の手習いに通っているので、丈ノ進の事は一応、先生、と敬称で呼んでいた。もっとも、そこに敬意が含まれているかはまた別の話になるのだが。
丈ノ進はお連の言葉に、不快げに口をへの字に結んだ。
「ろくに飯も炊けないくせにカタツムリなどと戯れているのがいい女房なものですか。」
亜衣はお姫さま育ちで、お勝手の事は何一つ出来ないままやってきた。おかげでここ数日、粥や、焦げた飯ばかりを食べさせられているから、丈ノ進としてはそろそろ文句の1つも言いたくなる。カタツムリの心配より、亭主の為に美味く飯を炊くことに心血を注いで欲しいものだ。
「何をそんなにぴりぴりしているんだい。」
お連は肉付きの良い肩を無理にすくめてみせた。
「先生を慕って大きな家から身一つで嫁に来てくれたんじゃないか。飯の出来なんて日が経てば良くなるよ。それより、先生だってもっと可愛がってやらないと愛想尽かしされちまうよ。」
「これくらいが私には普通です。これが嫌なら、里に戻ればいい。」
「今更、どの面下げて戻れって言うんだい。先生も薄情だねぇ。」
亜衣は実家と縁を切って飛び出してきたのだ。それなのに僅か10日かそこらで帰れるはずが無い。どうしても彼女が気に入らないのであれば、即刻追い返せばよかっただけの話で、飛び出してきたのを受け入れてしまった以上、丈ノ進には亜衣を女房として愛しむ責任があるとお連は思う。
近所の冷やかしに耐えかねるのは分かるが、今の亜衣にとって頼れるのは丈ノ進だけなのだ。もっと優しく接してもバチは当らない。
それとも、とお連は不意に閃くものがあったのか、勘ぐるように丈ノ進の顔を覗き込み、声を潜めた。
「もしかして、先生はやっぱり芳町の方なのかい?」
「何がやっぱりですかっ!!そんなわけないでしょうっ!」
丈ノ進が思わず声を裏返して、半ば叫ぶように否定したその時だ。
がたがたっと腰高障子を引いて、丈ノ進の隣の家から背中を丸めた小男が出てきた。30がらみの、目が細く、狡猾そうな口元、落ち窪んだ頬の鼠のような人相の男である。
「お連さん、違いますよ。旦那はでんでん虫にまで妬いているだけなんですよ。」
男の名は次郎吉と言う。
博打三昧の遊び人で、こうやって自宅から寝巻きで出てきたところを見ると昨夜は珍しく博打にも行かず、朝まで家で寝ていたらしい。耳だけはいいのか、表でのやり取りも家の中からしっかり聞いていたようだ。
次郎吉は揶揄するような薄い笑いを浮かべて、「ねぇ、旦那?」、と長身の丈ノ進を仰ぎ見る。
丈ノ進は反論するのも馬鹿らしく感じたのか、切れ長の目に鋭さを込めて睨みつけるにとどめたが、それくらいの事で次郎吉は恐れ入らず、それどころかむしろ擦り寄るように、丈ノ進に近づいてきた。
「へへへ。昨晩もまた、随分とお楽しみだったようで。」
「何だと?」
「隣に住んでいると何でも聞こえてくるんですよ。いやぁ、一晩中、あっしの家は箪笥の鐶が鳴って、堪らなかったですぜ。少しは寂しい独り身の隣人の事も思いやってくだせぇよ。」
次郎吉の下卑た笑いに同調するように井戸端にいた女たちも口元に手を当て、くすくすと笑い出した。日中は仏頂面のご浪人が、夜中になるとどれだけ激しく女房を抱いているのか、その懸隔が可笑しかったのである。
「なんだい、やる事はやっているんじゃないか。」
おれんがほっとしたように頬を緩める。丈ノ進が亜衣に冷たいのは、他人の目があるからであって、二人きりの時にはまた別の顔があるのだろう。
「安心したよ。むっつり顔の男は助平だってよく言うけど、先生もご多分に漏れないんだねぇ。でも、あまりしつこく迫ってくる男は嫌われるよ。」
「へへっ。そうですぜ、旦那。だから、いくら愛しいご新造さんでも、朝の一時くらい、でんでん虫に貸してやりなせぇ。」
「貴様・・・」
丈ノ進は切れ長の目を細め、眉根には深い皺を寄せた。そこには、からかわれた不快さよりも、何故この男がそんな事を言いふらすのか、訝しく思う気持ちの方が強い。
次郎吉はそんな丈ノ進の顔色を探るように見上げながら、ひっひっひ、と喉の奥で笑った。まだ若いのに皺枯れた、気色悪い笑い声で、丈ノ進は背筋に虫唾が走るのを覚える。
と、そこへ、大きな足音と共に、「て、てぇへんだぁ!」、と8.9歳くらいの男の子が裏木戸から血相を変えて飛び込んできた。膝上までしかない、縞模様の着物を着た少年で、手には竹で編んだ虫かごを持っている。お連の倅の半太だった。
「どうしたんだい?」
朝早くから近所の草むらへ虫取りに行っていたはずの倅がいつになく泡を食って戻ってきたものだから、お連も何事かと驚いた。
「お、お師匠のご新造さんが怪しい男どもに襲われてるっ!!」
「ええっ?!」
平和な長屋の朝の風景には似つかわしくない事態に、その場に居た全員が凍りつく。
お連などは腰を浮かし、おたおたし始めたが、咄嗟に何をしていいかも分からない。他の連中も皆、同じようなものだったが、ただ一人、丈ノ進の対応だけは早かった。
「どこだ、案内しろっ!」
叫びながら、木刀を片手に、砂埃を舞い上げて一目散に裏木戸へと走り去っていた。
「合点承知っ!」
初めて見る恐ろしい光景ではあったが、自身が襲われたわけでない分、半太に怯えはなく、事件の現場に出くわした、という状況に少年らしく大分興奮しているようだ。
「こっちだよ、お師匠っ!」
上気した頬で、声を張り上げると、半太は丈ノ進と共に長屋を飛び出していった。