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漆黒の海にただ堕ちる

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目を覚ませばひんやりとする外気に微かに身震いする。
黄金でできた細かい装飾の施された寝台に敷かれた黒い毛の長いシーツに身を横たえ、穏やかに寝息を立てる愛おしい人は、まだ起きる気配はない。
上質な生地でできた毛布を薄着の体に巻きつけ、窓辺近くのソファへ腰掛けた。
ここは冥府。多くの死者の魂の家であり、罪を清める場であり、新たな転生を迎える間の憩いの場。
「…私は王妃としての役割を果たせているのかしら。」
ふと不安になり、一人つぶやく。答える者はいない。
ここ冥府に連れ去られ、多くの時が過ぎた。
当初は憎いばかりであった愛おしい人も、触れ合ううちに不器用であるが心優しく穏やかで誠実な人だと知り、今では心から愛している。
冥府というこの場も、多くの冥界神たちは自分を女王だと認めくれている。
これ以上何を望む?そう自分に問いかけた。
「悩み事か?ペルセポネ」
ふいに低くつややかな声が優しく問いかける。俯いた顔を上げれば、困り気味に笑う最愛の人。
「ハデス様。…おはようございます」
「おはよう、随分と早いな」
ハデスは気遣わしげにペルセポネの前に屈む。そして壊れ物を扱うように頬をなでた。
その手の体温は低く、心地よいものではないだろうがペルセポネにとっては、愛されているという実感だった。
薄着で平気か?寒くはないか?腹が減っているのか?一緒に食事を摂ろうな、とハデスは自分を大事にしてくれる。
瞬間、過ぎた男性だと思った。この広大な冥府と億千万の魂を部下たちと裁き、それを統治し、時には神々の気まぐれで転生させ、忌み役を長年勤めそれを文句言わずしているのだ。しかも、ハデスは血色が悪いと言われるがそれだけ肌が白く、きめ細かい。
ダークブルーの瞳はどこかミステリアスで何を考えているのだろうかと、探りたくなってくる深い色。漆黒の髪は香油を塗ったかのように艶があり、触ればするりと指のあいだから抜け落ちていく。顔の輪郭はシャープで冷たい印象を受けるが、落ち着きがあり男性としての物静かさがある。
「どうした?…ペルセポネ?」
「っえ、うっ、な、何でも…っうぅ」
急に泣き出したペルセポネにハデスは、驚いた。宥めようとソファの隣に座り、ペルセポネを抱きしめた。
「どうした?どこか痛むのか?ん?」
「…っうぅ、い、痛くなんて…ないっ」
「では、なぜ泣くんだ?」
「そ、それは…」



最愛の王妃がポツリポツリと話をする。
時折、怯えるように自分のガウンの裾をキュッと握り、不謹慎だと思いながら可愛いと思ってしまった。
簡潔にまとめると大事にされすぎて、心配になりこのままだと捨てられてしまうと思ったそうだが…。
「お前は、自分の容姿に自信を持ったほうがいいぞ?」
「何故ですか…?…」
涙目でそう聞いてきた。自分の王妃は、無自覚に誘っているのではないだろうか。
麦の穂のような色の黄金の髪は緩やかなカールをし、光を吸い込むように輝いている。エメラルドグリーンの瞳は、草原で風に揺られる草や木の葉のようにきらめき、肌はかすかに日に焼けたようになっており健康的だ。前までは未成熟であったが最近は、自分と共に愛を営んでいたためか女性的な体つきになりつつある。
「俺には…その、目の毒というか…色っぽいというか…扇情的なのだが」
「全部、あのアバズレ女神に言ってください」
相変わらず性愛の女神との仲を象徴するかのような言葉で睨む。
別の方面で威力がある睨みだ。涙を両の目に溜め、頬はかすかに赤らんで。
拗ねた子供のような印象を受けるその睨みについ虐めたくなってくる。
「お前は俺の最愛。最愛の妃を俺は捨てる気がない」



優しくキスをされる。触れるだけの可愛らしいキス。
「本当ですか?」
ハデスがにこりと微笑む。
そして優しく抱きしめられた。心地がいい。
黒く長い髪がさらりと肌をくすぐる。肌を撫でるように髪がかぶさってくる錯覚を起こす。
まるで黒い海にいるような。
あぁ、でもこの海なら溺れて落ちてもかまわない。
この漆黒の海の奥底に貴方がいるのなら、どこまでも堕ちていきたい。
ギュッと首にまわした腕に微かに力がこもれば返事をするように、背中にまわされた腕が力強く自分の体を引き寄せた。
作品名:漆黒の海にただ堕ちる 作家名:兎餅