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濃霧の向こう側に手を伸ばして

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 翌朝、いつもより一時間長く寝ていた俺が目を覚ますと、キリは既に起きて台所に立っていた。
「おはよ」
 キリの背中に声を掛けると「おはよ」と返ってくる。笛吹きケトルの喧しい音が、寝起きの耳を直撃する。
「それ、鳴る前に火から下ろせ。うるさいから」
 話を聞いているのかどうなのか、軽々しく「はーい」と子供のように返事をし、二つ並んだマグカップにお湯を注いでいる。俺は布団をぱたんと三つ折りに畳んで、押し入れの前に置いた。暫くは押し入れにしまう必要を感じないからだ。どうせ暫くは、ベッドでは眠れないのだから。トイレにたって戻ってくると、朝食が出来上がっていた。
 ジャムが塗られたパンが皿に乗っている。隣にはマーガリンのパン。これで三日目になる。
「いただきまーす」
 またもやキリの発声で食事が開始された。別段文句を言うでもなく、俺は食事を始める。外から車が発進するエンジン音が聞こえてくる。
「そういえば、武人は車の運転ってしないの?」
「免許はあるし、レンタカーは時々乗ってるけど。車って維持費掛かるしな。原付があれば十分。一人だし」
 そう言うとキリは「彼女ができたら不便じゃないの?」と問う。
「車がない人はいやだ、なんていう女、こっちから願い下げだよ」
 ごちそうさま、そう言って食器をひとまとめにしてシンクに置いた。洗い物はキリがやってくれるらしい。俺はそれから顔を洗い歯を磨く。ちょうど朝食を食べ終えたキリが、シンクに食器を置くために、俺が少し場所をずれた。
 とても日常らしい日常を、この見ず知らずの女と過ごしている。まるで作り物のような気がするのだけれど、繰り広げられている事は確実に日常生活な訳で、おかしな気分になる。
 キリは洗った食器を必ず元の位置に戻しておく。俺は洗ったら洗ったままかごに入れて乾かしておいて、そこからまた食器を使うという事を繰り返していたが、洗った食器がきちんと棚に入っていると、とても清潔な気がして嬉しい。洗濯物も、きちんと畳んで置いておいてくれる。一人でいる頃よりも、より「素敵な日常生活」なのかもしれない。そう思うと、キリがいる生活も、悪い物ではないような気がしてくる。
 しかし問題なのは、彼女は「誰でもない」という事。知らない人間だと言う事。知っているのは桐子という名前と、精神的に病んでいるらしいと言う事、異常な寂しがりだという事、それぐらいだ。俺がいくらキリに愛着がわいたとしても、彼女は誰なのかさっぱり分からないのだ。
「じゃぁ、行ってきますんで」
 俺が鞄を持って玄関に向かうと、昨日までのようにまた走り寄ってくるのではないかと危惧したが、彼女はベッドに寝そべったまま、テレビを見ていた。聞こえてくるのは、星座占いだった。
「いってらっしゃい」
 何気ないその一言が、昨日までと違う。どこが違うのか分からない。犬コロのようについて来ない事が違うだけか、と思い直し鍵を手に取ろうと靴箱に目をやる。
 と、そこにあるはずの鍵がない。昨日確かにここに置いたはず。これまで一度も、ポケットに入れっぱなしだとか、原付にさしっぱなしとか、そういう経験はない。それでもここにないという事は、ポケットか。上着のポケットに手を突っ込んでみるが、手袋以外の感触はない。玄関を出て、原付の鍵穴を見てみるが、何もささっていない。そもそも原付に付けっぱなしになっていたら、一緒に付いている家の鍵が使えなかったはずだ。また玄関を入り、部屋に置いてある昨日履いていたデニムを広げてポケットを探ってみるが、やはりそこにも鍵がない。
「キリ、鍵見なかった?」
 ぶんぶん、無言で首を振っている。占いが終わると、キリはチャンネルを替え、別の番組を見始めた。
 思いつく場所を探し回ったが、どこにも鍵が見当たらない。原付に乗れないと職場に行けない。もし歩いて行ったとしても、今日は十時までに職場につかなければいけないのだ、恐らく間に合わない。原付の周りや玄関の周り、絶対にないだろう棚の引き出しや、靴箱の裏、調べられる所は調べ尽くしたが、結局見つからない。時計に目を遣ると、もう時間的にアウトだった。今から歩いて行っても十時には完全に間に合わない。タクシーを使ってギリギリというところにまで時間が経過していた。タクシーを呼ぶ時間もしくは拾う時間を考えたら、十時には間に合わないだろう。
 鍵がないから職場に行けない、そんな恥ずかしい言い訳はできない。「合鍵ぐらいあるだろう」と言われそうだ。合鍵は何かあった時のために実家に預けてある。原付の合鍵は、一度なくしてそれから作っていない。俺は諦めてスマートフォンを取り出した。
「あ、もしもし桜井です。佐伯さんいますか? はい、あ、桜井です。あの、ちょっと熱が出ちゃって、はい。そうなんですよ。すみません。先方にも申し訳ないと伝えていただけますか? すみません。はい。失礼します」
 スマートフォンをロックして、溜め息を吐く。さて、これから本格的に鍵を探さなければ。原付だけではない、家の鍵もついているからだ。まさか今後キリを家の鍵代わりにするわけにもいかないし。
「キリ、悪いんだけど鍵探し、一緒にやってくんない?」
 キリはテレビから目を外さず、「嫌だって言ったらどうする」と無機質な声で問う。
「そんなにテレビ見たいなら別にいいんだけど」
 見つめた横顔は、口の端をキュッとあげて歪な笑みを作っている。その笑い方に対し、何だか背筋に冷たい物が走った。この女、鍵の在処を知っている?
「キリ、鍵どこやった」
 こちらには目を遣らず、彼女の瞳にはテレビの不定期な光が反射している。じっと見つめたテレビから、やっと視線を外すと、歪んだ笑みでこちらを見る。
「この季節、ほとんどお世話にならない所だよ」
 俺は狭い六畳間とおまけみたいにくっついてる台所を見渡して、キリが言ったヒントに合致する場所を考えた。そしてそこに足を向ける。マグネットでくっついているのであろうその扉を手前に引っ張ると、ごくごく薄い金属の板が触れ合ったみたいな音で霜が割れる。
 暖かい部屋の中に、背の低い冷蔵庫の上段から冷気が積極的に出て行く。そこを覗く俺の顔に、覆い被さるように冷気が触れる。保冷剤が二つと、製氷皿だけが入っているはずのそこに、オレンジ色のピックが見える。俺は手を差し入れてそれを持つと、鍵の部分がすぐに結露した。ドスっ、と乱暴に扉を閉めると、マグネットが機能せず再び扉が開き、苛立つ。
 流しにあるタオルで鍵についた霜を拭き取り、靴箱の上に置く。本来ならここにあったはずの鍵だ。そこに糊付けでもするかのように、ぎゅっと押し付けた。手が、小刻みに震えた。
「キリ」
 思っていたよりもずっと低い声が出る。キリは悪びれた顔は見せず、ただベッドに小さくなって座っている。俺は彼女を見下ろすようにベッドの横に立った。
「どういう事だよ、あれは。説明しろ」
「鍵?」
 少しうわずった声は、彼女の動揺を表しているのであろう。俺は無言で頷く。彼女は酷く真面目な顔をして俺を見上げて言う。
「ここにいて欲しかったから。って言って、信じてもらえる?」
 首を捻り「は?」と怪訝気に訊き返す。