小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

濃霧の向こう側に手を伸ばして

INDEX|21ページ/22ページ|

次のページ前のページ
 

11



 逃げられないと悟ったのか、俺が初めに座っていた、はめ殺しの窓の所にしゃがんで、ライブハウスの後片付けが終わるのを待っていた。
「桜井君」
 肩を叩いたのは香山さんだった。
「あれ、来てたんすか?」
 俺の驚いた顔に香山さんは「当たり前だろー」と笑う。
「濃霧の向こう、良かったよ。乗り移ったみたいだった。って言ったら嫌かも知れないけど」
「別にいいっすよ。今日はトリビュートだから、その方がいいでしょ」
 シールドをくるくる巻きながら、顎で窓の方を指し示した。
「桐ちゃん?」
 香山さんは目をまん丸にして叫ぶとキリに近づき、しゃがんで何か言葉を交わしている。生きている事が分かってほっとしているだろう。あとは今関さんのお母さんにも連絡を入れなければ。連絡先が書かれた紙は、家に置いてきた。
 ギターケースから、今日のイベントのビラの残り数枚を取り出し「下島くーん、あげる」と言って苦笑いする彼の手にねじ込んだ。
 ふと見たキリは、笑っていた。香山さんと言葉を交わし、きちんと笑えていた。酷く安堵した俺は、足元にあったスピーカーに足を取られ、危うく派手に転がる所だった。
 俺はオーナーさんと二言三言言葉を交わし、それからギターケースを担ぐとキリの所へ行った。
「帰るよ」
 俺が手を差し出すと、キリは少し困ったような顔をして、それでも俺がしつこく手を目の前に差し出すからか、仕方が無いと言った態で俺の手を握った。
「荷物は? ホテルにあるの?」
 口を真一文字に結んだキリは、暫くそれを動かさなかったが、彼女の手を引っ張るとその口をやっと開いた。
「無いよ。今日私も健司のとこに行こうと思ってたから」
 やはり俺の思考は的を射ていたという事だ。十階分の階段を駆け下りた自分を内心で褒めてやる。霧の向こうに消えようとしていた彼女を、こちらの世界に引きずり込む事に成功したのだから。
 真っ直ぐ家に帰る事も考えたが、やはりやめた。
「今関さんのお母さんとこ、連れてってよ」
 そう言って俺は、自宅がある駅に向かうのとは違う電車に乗り込んだ。

「桐子ちゃん!」
 今関さんの家までの道のりは、キリがきちんと教えてくれた。今関さんのお母さんは目を潤ませてキリの両手を握った。キリは一言お母さんに謝罪をすると、部屋の奥へと入っていく。
 俺はリビングに通されたので、今関さんに線香を手向けた。仏壇の横、開いた襖の奥にある和室は電気が消えていたけれど、リビングからのオレンジがかった明かりが差し込み、そこには大人用の布団に横になったキリの子供が眠っていた。隣には寄り添うようにキリがいた。声を殺して泣いていた。その背中は、一人で子供を育てていくにはあまりに小さく、頼りなく、痛々しいものだった。
「桜井さん、ありがとうございました」
 涙ぐんで心からの笑みを浮かべる彼女に俺は「何事もなくて良かったです」と笑顔を交えて返す。
「生きてたってだけで、もう何もいらない。あとはこれからどうするか、あの子が決めたらいいと思ってる」
 首を傾げるようにして頷くと、俺はテーブルに置かれた紅茶を一口飲んだ。
 これからキリはこの家で、今関さんのお母さんと、子供と三人で暮らしていくのだろう。きっと今関さんのお母さんは、キリを家族同然に扱ってくれるだろう。自分の孫を生んだ娘なのだから。

 その日は結局、キリと二人、俺の家に戻った。明日、キリは俺の家に置いてある荷物を引き上げて、今関さんの家まで俺が送り届ける事を、今関さんのお母さんと約束をした。
 帰りの電車で俺はしきりにキリに話し掛けたけれど、キリは頷くか首を横に振るだけで、口を開かない。俺が一方的に話し掛け、人が少なくなった列車の中には俺の声だけが響いているような状況だった。
「健太郎君も、ママが帰ってくるの、嬉しいだろうな」
 キリは頷くわけでもなく、車窓の向こう側に視線を投げた。そこには次から次へとビルの明かりが通り過ぎていく。
「キリは嬉しいだろ、今関さんのお母さんも優しそうだし、健太郎君と二人面倒見てくれるって言ってるし」
 頷くと思いきや、彼女は少し俯いて、それから首を傾げる。それから間の抜けた音とともに口を開くと、また閉じてしまった。
「何、話してみなよ。話したい事あるんじゃないの」
 すると彼女は一度きゅっと唇を引き締め、それから「あの」と声を発した。
「健太郎には、悪い事をしたと思ってる。いくら精神的にアレだったとしても、あんなに小さい子を」
 俯いた彼女の横顔をそっと見遣ると、口の端が痙攣している。泣くのを我慢しているのかも知れない。
「でも、あの家にはいちゃダメだと思う。ずっと健司の亡霊に追いかけられて、私ずっとダメなままだと思う」
 俺は彼女が少しでも話しやすいように、少し笑みを浮かべて頷くにとどめた。
「嫌なら嫌って言ってね。私は武人と健太郎と、三人で暮らしたい」
 呆けたような顔になっていたと思う。俺はそのまま何も言えず、キリの横顔を見ていた。彼女の顔は大真面目で、別にふざけた事を言っている様子はない。
「でもほら、俺、今関さんにそっくりだよ。それこそ今関さんの事忘れられないんじゃない?」
 キリは髪を放るみたいに激しく首を振り「そんな事ない」と言う。
「だって、武人と健司は違うもん。全然違う人だもん。見た目で近寄ったけど、中身に惚れたんだもん」
 彼女の真っ直ぐな物言いに戸惑い、声が出ない。
 自分の気持ちはどうなのか。キリがいなくなってしまって俺は焦りに焦った。霧の向こうに行ってしまうのではないかと焦り、一歩手前でその手を掴んだ。もう、離してしまわないように、しっかりと。
 それは、彼女の自殺を引き止めたかっただけではなかったはずだ。俺の元に彼女をとどめておきたかった。彼女の隣に俺がいて、俺の隣には彼女がいる。あの摩訶不思議な二人の六畳間に、戻りたかったのではないか。
 俺はキリの右手に、左手を重ねた。いつもみたいに冷えきった手だった。
「キリが、そう思うなら、俺はいいよ。でも今関さんみたいにお金持ちじゃないから」
「いいよ、って何、いいよって」
 俺の話を遮るように声を張り、珍しく鋭い視線をこちらに寄越す。俺は暫く考えて、「俺も同じ事を考えてたって事」と目を逸らして言った。
 視線を彼女に戻すと、彼女は一気に力が抜けたみたいに頬を緩めて、心無しか頬の血色が戻ってきた。
「俺は約束を全うするよ。公務員だからな。堅いぜ。だからもう少しして落ち着いたら、キリは桜井桐子になるんだ」
 少し驚いたように口元を抑え、それから目の下縁に光るものをためて「うん」と大きく頷く。
 その後は、少し広い家に引っ越そうだとか、車を買おうとか、そんな話をしたのだけれど、キリは微笑んで頷くばかりで口を開かなかった。それでも俺は満足だった。

 やっと連れて帰って来れたという安堵で胸がいっぱいになっている中、玄関に挟んであったビラが、なくなっている事に気付く。
「もしかしてキリ、ここに来た?」
 ここでも声に出さず頷く。
「そうかそうか。良かった」