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濃霧の向こう側に手を伸ばして

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 俺は職場に着くと、キリにメールをした。財布と携帯が入ったショルダーバッグは持って出ているはずだから、メールは届くだろう。
『キリ、どこにいる? 俺は職場』
 一時間程会議で席をあけ、戻ってからスマートフォン見ると、返信はなかった。
『これから飯』
 いつも通りに昼前にもメールをする。キリが寂しくないように、俺は約束通りにメールを送る。しかし返信は無い。いつもなら五分とたたずに、いや、二分も空いた事があるだろうか、返信メールがくるのだが。

「それって逃げられたって事?」
「ま、そう言う事になりますかね」
 先輩のタバコの煙を避けるように、彼の斜め後ろの壁に凭れ掛かった。壁に打ち当たった身体から、思いがけずしっかりとした溜め息が零れた。
「何かやらかしたか? 逃げられるなんて相当な事したんだろ」
 サンダルをつま先でぶらぶらさせながら「複雑な事情の彼女なんで」と言う。まさか「今関健司の嫁」なんて事は言えないのだ。
「でも荷物は置いたまんまなんですよ、薬とか、着替えとか」
「薬? 何の薬」
 ふわふわと漂って清浄機に向かって行く白い煙を見ながら「知らないんです」と答えると「はぁ?」と怪訝気な声が返ってくる。
「彼女が飲んでる薬ぐらい把握しとけよ」
「あ、でも睡眠薬とか。多分、彼女の話からすると、精神的な色々、の薬っぽいですけどね」
 まるでちぐはぐな福笑いのような言葉だった。それでも先輩は「あぁ、そっち系の」と納得する。目を細めてタバコを吸い込み、それから煙と一緒に言葉が紡がれる。
「不安定な子だったって事か。どこ行ったか心配だな、その子」
 先輩の言葉を聞いて、いの一番に想起してしまった。まさかそんな事は無いだろうとどこかで楽観視している自分もいるのだが、心の殆どを「後追い」という言葉が覆い尽くしていた。
「メールも返って来ないんですよ」
 意識せずとも口の端が小刻みに震えているのが自分でもよく分かる。
 先輩は素早く顔をこちらに向けて「警察に言ったら?」と言う。それがまともな考えだろう。
 警察に捜索願を出すのならもう既に今関さんのお母さんが失踪届けでも出しているはずだ。しかしあの感じは、誰にも知られないように探している様子だった。きっと、マスコミに嗅ぎ付けられたりしたくないのだろう。何しろ、内縁の妻と子供がいたのだ。自殺をした夫と失踪した内縁の妻。そして残された子供。そんなのはマスコミの格好の餌食だ。
「俺じゃなくてそういうの、家族がやるだろうから、とりあえず俺は家で待ってます」
 ふん、と短く頷いて灰皿に押し付けられたタバコから少し色の強い白が立ち上った。

 弾き語りをしていたら現れるのではないかと期待していた。駅前を広く見渡せる場所をとり、演奏を始める。寒さなどは感じなかった。とにかく視覚を最大に研ぎすまし、どこかにキリの影が無いかと探した。俺の声を聴いて近づいてきてくれたらと、都合の良い期待の仕方だったかも知れない。しかし、期待とは裏腹に、全く顔の知らない人が俺に近づき曲を聴き、ビラを取って行く。
 思いがけない人物が、俺に近づいてきた。その人はニットキャップをかぶり、ダウンジャケットの襟に埋まるようにして顔を隠して近づいてきたけれど、遠くから見て俺はそれが誰なのか分かった。曲が止んだ所で、その人はひらりと手を挙げてすぐ傍に寄ってきた。
「桜井君だよね」
「香山さんですよね」
 手を差し出され「久しぶり」と握手をする。確かに久しぶりだった。年単位で顔を合わせていない。テレビでは幾度となく目にしているのだが。
「あのさ、この前、おばさんが来なかった? 桐子っていう子を探してるって」
 俺はピックを弦に差し込みながら「来ましたよ。今関さんのお母さん」と言った。香山さんはそれで大体の事は理解したようで「桐ちゃん、桜井君のとこに来た?」と俺を指差す。俺はこくりと頷いた。
 ストラップを肩から外すと縁石に腰掛ける。隣に香山さんも腰掛けた。
「桐子さん、俺と暮らしてたんですよ」
「は? なにそれ。何で? 桜井君が健司と似てるからか?」
 首を捻る外なかった。理由なんてこっちが聞きたい。
「とにかく、俺の家で暫く生活して、今関さんのお母さんが来たあの日に、姿を消しました。貴重品以外の荷物は俺んちに置いたままなんですよ」
 香山さんは額の辺りをぐっと押さえて「そっかぁ」と気怠げに言う。
「生きてるならいいんだ」
「分かんないっすよ、今はどうしてるのか。だって逃げちゃったから」
 スッと顔をあげ「心当たりない?」と訊ねられ、「あるわけないじゃないですか」と突っぱねた。
「こうやって歌ってたら、もしかしたら姿を現すんじゃねーかなーとか希望的観測で、今歌ってたんですよ。でも、もう今日は諦めた方が良さそうですね」
 腕時計を見遣る。あちこちから弾き語りの音が聞こえてくる。これもあと十分もすれば聞こえなくなる。
「桐ちゃん、色々抱えてたから、変な事してないといいんだけど。邪魔したね、桜井君」
 そう言うと挨拶もそこそこに立ち上がって、駅の方へと消えて行った。考える事は皆同じか、と小さく溜め息を吐く。
 入れ替わるようにして、先日今関さんのトリビュートライブを持ちかけてきた下島君が「さくらいさーん」とギターケースを担いで走り寄ってきた。
「おぉ、もしかしてイベントのビラできたの?」
 彼は手に持っていた紙の束からいくつかを引き抜くと「桜井さんならこれぐらいハケるでしょ、お願いしますよ」と白い息とともに俺にその紙を手渡す。
「そっちとちがってこっちはあんまりじっくり聞いてくれるお客さんがいなくってさー」
 少し栄えすぎているのだ、この駅は。皆、足早に帰宅の徒につく。それに比べて以前拠点にしていた駅は、学生が多い駅だった事も手伝って、じっくりと聴いていくお客さんが多く見られた。
「それでも桜井さんだからこの駅でやっていけるんですよ。俺らはこんなとこ来たら、駅のモニュメントと化しますよ」
 自らをあざけるようにして笑い、ポケットから携帯を取り出した。彼は「ちょっと」と言って耳に当て、手を振りながら駅の雑踏に消えて行った。
「今日はもう終わり?」
 時々聴いていってくれる常連の女性が近づいてきたので、貰いたてほやほやのビラを手渡した。
「ソニックスの今関さんのトリビュートライブやるんで、良かったら来てください」
 女性は俺の顔を見て「今関さんの曲、歌うの?」と目を見開いている。
「はい、歌います」
「えー、絶対見に行こー。今関さんに声も似てるもんね、楽しみだな」
 俺は「はぁ」と苦笑しつつ、ギターケースにビラをしまった。女性は「ライブ頑張ってねー」と手を振りながら去って行った。
 二番煎じも、今回だけは仕方が無いだろう、似てると言われようと何だろうと、今関さんのために歌うのだ。トリビュートなのだから。ギターケースを肩に掛け、ざっと周りを見渡すが、やはりキリの姿は見当たらなかった。俺はそのまま家に向かった。もしかしたら、の僅かな可能性に掛けたのだが、玄関の前にも人の影は無かった。