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それぞれの死

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(すごい。すごい情報を取り扱っているんだ……)
 栄太郎は心の中で唸った。思わずケースファイルを読み耽ってしまった。

「北島さんはこれから面接室に来てもらう。まず、生活保護の何たるかを理解してもらわなきゃな」
 高橋係長は膨大な資料を抱え、立ち上がった。栄太郎はまだケースファイルを読んでいる最中だったが、メモを片手に高橋係長に続いた。
 面接室は薄い衝立のような間仕切りで囲まれた部屋だった。そんな面接室がいくつも連なっている。二人はその一室に入った。
「まず、生活保護の何たるかを教えてやらなければな」
 高橋係長が腕組みをした。
 生活保護とは日本国憲法の第二十五条の生存権を具体的に保障する制度で、生活に困窮する人々に対し、無償で金銭等を給付する制度である。それは最低限度の生活が営めるレベルのものとなっている。生活保護はセーフティネットとして最後の網の目の役割を担っていることから他法他施策が優先される。そこで救えなかった場合、はじめて生活保護が適用されるのだ。まずはそんな説明を栄太郎は高橋係長から受けた。
 そして、生活保護の申請から決定までの、一通りの流れの説明を受けることになる。
 だが正直なところ、栄太郎には話の半分も理解できなかった。そんな栄太郎を見透かしてか、高橋係長は「まずは習うより、慣れろだ」と言った。
 午前中のレクチャーが終わると、栄太郎は自分のデスクに着いた。そして、「ふう」とため息をついた。頭の中はパンクしそうだった。
「田所、この通院移送費の決定は定例じゃなくて随時支給だろう」
「戸沢、日向のロクサン、どうなった?」
「楠木、弓田の80条免除の検討が甘いぞ」
 高橋係長から発せられる言葉は、どれも栄太郎には理解不能で、宇宙人の会話を聞いているような錯覚を覚えたものである。
 栄太郎が呆けたような顔をしていると、突然、目の前の内線が鳴った。栄太郎は咄嗟にその受話器を取り上げていた。そんな栄太郎を高橋係長はニヤニヤしながら眺めていた。
 電話交換手の女性は「生活福祉課へ外線です」と告げた。
「はい、生活福祉課ですが……」
「こちら、ひまわり調剤薬局と申しますが、いつもお世話になっております」
「はい、こちらこそお世話になっております」
「佐々木健一様の三月二十八日分の調剤券が未到着なのですが……。受給者番号を教えていただけませんでしょうか?」
(調剤券? 受給者番号? 一体なんだそりゃ……?)
 栄太郎にはわからない言葉ばかりだった。
「あ、あのー、調剤券というのは……?」
 栄太郎が自信なさげにそう言うと、相手はムッとした口調になり、「話のわかる方をお願いします」と言った。栄太郎はオロオロしながら、高橋係長の方を見た。
「どこの調剤薬局からで、誰の分だ?」
「ひまわり調剤薬局からで三月二十八日の佐々木健一さんの分だと言っていますが……」
「それなら、昨日発送している。確か塩田小児科の分だったな。今日か明日には調剤券が届くと言っておけ」
「係長、電話変わってくださいよ。僕じゃまだわからないことだらけで……」
「馬鹿! 自分で取った電話だろう。甘ったれるな!」
 高橋係長は栄太郎を一喝した。栄太郎は渋々、受話器に向かった。
「済みません。調剤券は昨日発送したそうです。今日か明日のうちには届くと思うのですが……」
「うちは受給者番号が知りたいんです。基金に請求するのに……」
 相手が電話口で苛ついているのがわかった。栄太郎の受話器を握る手にじっとりと脂汗が滲み、思わず受話器を落としそうになる。
「先方は受給者番号を知りたいそうです」
 栄太郎は自分が子どもの遣いのように思えてきた。
「それは調剤券で確認するのが筋だ。調剤券は確実に届くんだから、それで確認しろと伝えろ。受給者番号はみだりに教えるものじゃない」
「はあ……」
 栄太郎は仕方なく、「受給者番号は調剤券で確認してください」と言った。すると、相手は「いつもなら教えてくれるのに……。いつから福祉事務所はそんなに不親切になったのかしら」と不満を漏らしながら、電話を切った。
 栄太郎は受話器を置くと、それは脂汗でじっとりと濡れていた。
「ふふふ、早速、手痛い洗礼を受けたようだな。まあ、こんなのは序の口だ。どうだ、電話が怖くなっただろう?」
 高橋係長が面白そうに笑った。栄太郎は心の中で「笑い事じゃない」と思いながら、「調剤券とか、受給者番号って何ですか?」と高橋係長に尋ねた。
「生活保護の場合、社会保険は別だが、国民健康保険には加入できないからな。まず被保護者が医療機関にかかる場合は、変更申請書という書類を提出し、受診券を持って医療機関に行くことになる。その変更申請書を元に我々は医療決定という行為を行うんだ。医療決定が為されると、医療機関には医療券が、調剤薬局には調剤券がそれぞれ発行される。それに基づいて医療費や調剤費の請求をするわけだ。被保護者一人一人には受給者番号というのが付けられていてな。先に受給者番号を教えてしまうと、不正な請求なども起こり得るんだ。まあ、こちらに落ち度があって医療券や調剤券の発行が遅れた場合、医療決定が為されていれば教えるケースもあるがね……」
 高橋係長は腕組みをしながら滔々と述べた。栄太郎は「はあ」と頷きながら、聞くしかなかった。

 四月三日は生活保護費の支給日だった。大半の者は銀行振り込みになっていたのだが、どうしても窓口支給をしなければならない人たちも多いという。それは生活上の指導をしたり、支給日にしかなかなか会えない人いたりするからだ。
 栄太郎は初めての支給日で圧倒されていた。それは押しかける人の山だった。
「はい、順番、順番。受給者証と印鑑をご用意ください!」
 戸沢という職員が大きな声で言った。
「城所さん、まだ仕事はみつからないの?」
 戸沢が城所という被保護者を睨み付けた。
「職安には行っているんですがねぇ。この不況じゃ、へへへ……」
 城所は笑って誤魔化す。だが、戸沢は「酒臭いね」と言うと、出しかけた保護費の袋を引っ込めた。
「そりゃあ、ないですよ」
「昼間から酒臭い息を振り回している奴がまともな仕事に就けると思うか? 今度、酒などやったら、生活保護を打ち切るぞ!」
 戸沢は城所を一喝した。それでも渋々、戸沢は保護費の入った袋を城所に渡す。城所は卑屈な笑いを浮かべて書面に印鑑をつく。そんな様を栄太郎は呆気に取られながら眺めていた。
「ほら新人、お前もボーッと突っ立ってないで、手伝ってくれ」
 戸沢にそう言われ、栄太郎もカウンターの椅子に座った。栄太郎の前に怒涛のように被保護者がなだれてきた。

 その日の晩は生活福祉課の歓送迎会だった。無論、栄太郎は主賓扱いであるのだが、どこか、馴染めずにビールを啜っていた。栄太郎の隣には高橋係長が座っている。
「ようどうだ、生活福祉課は?」
 したたか酒に酔った高橋係長が栄太郎にもたれかかって、ビールを注いだ。
「はあ、実はまだよくわからないんです」
「わからなくて当然だ。この道三十五年の俺にだって、まだ迷うことがあるんだ」
「高橋係長がですが?」
作品名:それぞれの死 作家名:栗原 峰幸