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フェル・アルム刻記 追補編

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「ハーン。気持ちは分かるが、騒いでは身体に障るぞ。とにもかくにも、お前さんがニーヴルであろうと誰であろうと、この老いぼれには関係のないことじゃ。せっかく助かった命は、粗末にしてはならない」
 老人はハーンの右肩に手を置くと、優しくそう言うのだった。ハーンの視界は歪み、目の奥が熱くなる。頬を伝って一筋の涙がこぼれた。やがて彼は嗚咽を漏らしながら、布団に頭を埋めた。
 それを見ていた〈帳〉は老人に言った。
「まだ彼は独りにさせておいたほうがいい。……安心なさい。彼は自ら命を絶つような真似はしないだろう」
 老人はうなずき、またハーンの肩に手を置いた。
「現実はお前さんにとってたいそう厳しいものなのかもしれん。隣の部屋に食事を用意しておくから、好きな時に食べなさい」
 ハーンはうつむき、しゃくり上げながら、ただうなずいた。

* * *

 三日が経ち、ハーンの身体はほぼ完全に回復した。なみの人間であれば一週間を要するところだが、剣の使い手であるハーンの肉体は、細い身体から想像が出来ないほど強靱なものだった。
「これから僕はどうしたらいいんだろう……?」
 ハーンは抱えている不安を〈帳〉に打ち明けた。
「親元を離れて十年以上経ってますし、今さら戻るわけにもいきません。なにより、ニーヴルの生き残りがいることが中枢に分かってしまったら? 僕にはもう行き場所など無いというんでしょうか……」
「ならば私と共に来るといい」
 〈帳〉は言った。
「私は“遙けき野”に居を構えている。誰も通りかかることなど無い。君の姿をしばしの間隠すにはうってつけの場所だが、どうか?」
「あなたは一体……どういう方なんですか? 色々とよく物事をご存じのようですが」
 ハーンは恐る恐る尋ねた。
「私は……そうだな。賢人であり、世捨て人ともいえる。自分で賢人を自称するなど実におこがましいものだがな。そういった意味では私は怪しい人間なのかもしれない。だがもし君が一連の戦いの――フェル・アルムの真実を知りたければ、私が教えよう。私の知る限りのことを君に話そう」
 白髪の賢人は言った。
「真実……」
 ハーンは黙って腕組みをし、しばし考え込んだ。
「死んでいった仲間達の無念を後々に伝えるためにも、僕は真実を知りたい。――分かりました。あなたについていきましょう。僕が失うものなどもはや何も無いのだから……」

* * *

 さらに一日後、ハーンは〈帳〉と共に、はるか北西の地にあるという〈帳〉の館に向かうことにした。
 ハーンははじめて老人の家から外に出た。ここは丘陵地の隅にぽつんとある、ごく小さな集落だった。小屋から南にかけては小高い丘が一面に広がっており、そこでは何頭かの牛たちがのんびりと草をはんでいるのが見える。だがその草は、酪農を営むにしてはやけに貧相だ。さらに丘には他にも草花が生えており、ところどころに黄色い花がちらちらと見えている。
 南の街道まで彼らを送ると老人が申し出たので、二人は喜んで受け入れた。
 丘へと登る小径を三人で歩いていくと、牛たちや草花の様子が分かるようになってきた。草が緑色をしているのはごく一部のみであり、丘の残りの部分では踏みにじられたように折れ、枯れてしまっているようだ。
「ひどいな……」ハーンは顔をしかめた。
「ここはな、一面のタンポポで覆われる丘じゃった。なにもないこの村が唯一誇れる景色があったのだ。……のどかで奇麗なもんじゃった……」
 老人は道ばたでしおれていた花をつまんで言った。それはタンポポの花だった。
「じゃがな、戦いが全てを台無しにしてしまった……。草花は踏みにじられ、焼かれてしまった。わしらは戦いから牛たちを守るのが精一杯だったのじゃよ」
 ひどいものじゃ。そう言ってから老人は言葉を詰まらせ、それ以上語ることはなかった。ハーンと同じように、この老人や集落の人々も無念の思いを抱えているのだ。戦いが生み出した結果というのは、何だったのだろう?

 ハーンはうつむきながら、折れしおれたタンポポの花を踏みしめ丘を歩いていった。花の一輪一輪から悲鳴が聞こえてくるようだ。あの戦いが、近隣の村々にまで被害を及ぼすことになろうとは、当時の彼は考えもしていなかった。しかし彼の楽観的な思いは無惨にも引き裂かれたのだ。
 中腹にさしかかる頃になって〈帳〉が口を開いた。
「ハーン。心せよ。この丘を越えた先は、もっとひどいことになっているのだから……」
 ハーンは小さくうなずいた。この先にあるのは、戦いの結果そのものなのだろう。
「神の子ユクツェルノイレは、人間にお情けをかけてくださらないのだろうか……」
 ハーンは天を仰いで言った。
「ユクツェルノイレは……いや、なんでもない」
 〈帳〉は言いかけていた言葉を抑え込んだ。神君の真実について語るということは、これから凄惨な戦場の傷跡を目の当たりにするだろうハーンに、さらなる追い打ちをかけることにしかならないから。
「生きておればこれからどうにでもなる。我が身が無事にあることだけでも、神君ユクツェルノイレに感謝せねばな」
 老人はまた一本のタンポポを手に取って言った。綿帽子に包まれたそのタンポポに、老人はふうっと息を吹きかける。するとタンポポの綿毛のいくつかが風に乗って飛んでいった。
「わしらも、このタンポポと同じじゃよ。踏みにじられても、地面に深く根を下ろしている限り、また花を咲かせることが出来る。それにもしここの花々が失われてしまったとしても、この綿毛が新しい花を咲かしていくじゃろう。人もそれと同じじゃ。わしはそう信じたい……」
 ふうっと、また一息。
 ハーンは見守るようなまなざしでタンポポの綿毛が飛ぶさまを見ていた。この丘を越えた先には目を背けたくなるようなむごたらしい情景が広がっているという。さらに、〈帳〉が話すという?真実?とは、おそらくハーンにとって過酷なものになるだろうと予見した。
 けれども。
 それまでの彼自身のように、のんびりと笑って過ごせる日々がきっと訪れるのだ。そう考えると彼の気持ちは少しばかり和らぐのだった。辛いことがあった時は、タンポポの花咲く様子を想像すればいい。丘陵一面に広がる黄色と緑が、空の蒼と調和する美しい景色を。
 ハーンは真実と向き合う決意を新たにした。彼は綿帽子を手に取ると、老人と同じように息を吹きかけた。
 希望あれ、と願いを込めて。


      【終】