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ノクターン

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「まだ三十出たばっかりなのに! そういうトコがだめなんだよ」
 ムッとした。ダメなのはよく分かっている。けど、仕方ないだろ。人間どうにも出来ないことがある。それを、親からもらった資産でのうのうと暮らしている篤博に言われたくない。
「未だに兄貴のこともふっきれてないんだろ。けどあいつはもう、あんたが好きになった時の美しさなんてみじんも持ち合わせてないよ」
 顔が真っ赤になった。なんで篤博は俺が暢一のこと好きだって知っているのか。
「兄貴は結婚して子どももいて普通に働いて、すっかり俗物になってしまった。本当につまんない大人だよ」
「それのどこがいけないんだ? 妻と子どもを養っていくために働いていて何が悪いんだよ」
「悪かないよ。けど、あんたたち昔、こんな大人になりたかったのか? あんたはピアノが好きじゃなかったのか?」
 篤博の言っていることが少しだけ分かった。確かに高校生だったときの俺たちは、こんな大人になりたかった訳じゃない。じゃ、何になりたかったのか、って言われるとそれも困るんだ。別になかったから。暢一とずっといられたらそれでよかったんだ。
「君は何が言いたいんだ? 」
 篤博の真意が分からなかった。なんでこんなことを言うのか? 他人に興味なんて持ちそうもないこの男が、なんで俺にこんなにからんでくるのかも分からなかった。
「本当のあんたを取り戻せって言ってんだ」
「本当の? 」
「社会や大人に汚染されたあんたじゃない自分だよ。暢一のために弾いていたノクターンを思い出せって言ってんだよ」
「どうして君は、俺のノクターンを知っているんだ? 」
 篤博は返事をせずに部屋を出ていくと、しばらくして戻ってきた。手にはMDを持っていた。あ、それ……
「覚えてる? これあんたが暢一にあげたMD」
 今はめずらしくなったMD。当時は録音するにはMDが一般的だったんだ。篤博はそのMDをデッキに入れるとスイッチを押した。
 流れる。ノクターン……俺が弾いていた。……蘇る高校生だった俺。暢一が好きでたまらなかった。その想いを全部この曲にのせたんだ。胸がいっぱいになった。
「俺、このノクターンすごく好きだった。暢一が聴いているそばで何度も聴いた。『俺のために貴晶(たかあき)が弾いてくれたんだ』て兄貴が言うの聞いて羨ましかった。兄貴にはこんなすごい曲を弾いてくれる友達がいる、きっとすごいピアニストだって」
「俺はピアニストじゃない」
「分かってる。ピアニストだろうがそうじゃなかろうが、そんな事どうだっていい。俺は
暢一のために一生懸命ノクターンを弾いたあんたを思い出して欲しいだけなんだ」
 胸が苦しかった。
 どうして篤博はこんな事言うんだ? 暢一への思いを思い出したってつらいだけだ。暢一はもう結婚して子どもだっているんだ。今更俺が昔の思いを再燃して何もいいことなんてない。
「帰る」
 俺は篤博の部屋から出ていこうとした。
「頼むから!」
 振り返ると篤博が泣きそうな顔をしていた。
「ノクターンを……弾いてくれ」
 俺はたまらなくなってその場を去った。


 あれから篤博の言葉がずっと離れない。バイトをしていても、職安に行っても、スーパーで買い物していても。
「ノクターンを弾いてくれ」
 その言葉が俺の中で呪縛のようにのしかかる。そして高校生の自分が弾いていたノクターンの音色も。
 やめてくれ!
 せつなくて、苦しくて、悲しかった。
 叶わぬ恋のつらさが思い出される。
 なのに……響く一音一音の優しさ、メランコリズムな旋律。今、聴けばその美しさに魅了される。技術うんぬんじゃない。音楽とは人の心にどれだけ訴える力があるかだ。あのノクターンは魔力を持っていた。

 篤博の部屋からピアノが聴こえなくなった。絵美子が寂しがった。あのノクターンが聴きたい、と何度も言う。家でも「弾け」と責められている気分になる。たまらなくなって廊下に出れば、篤博の部屋の戸が開いていた。どうしても気になってのぞいてしまう。見た限りでは誰もいないようだ。ただ、突き当たりにあるアップライトのピアノに目が吸い付いた。

 ピアノの蓋を開けた。
 椅子に座ると鍵盤に手を置いた。
 シのフラットから始まる。
 そのまま指を下ろした。
 流れる旋律。けれど指が動かない、あ、間違った、左手が音を忘れている……だめ。こんなに弾けなくなってしまった……
 俺は弾くの止めた。

「左手は俺が弾くよ」
 篤博がいつの間にか後ろに来ていた。そして楽譜を譜面台に置いた。並んで椅子に座る。俺はじっと篤博を見た。
「少しやればきっとすぐに貴晶は思い出す」
 美しい篤博の瞳。俺の胸の奥でコトリと何か音が鳴った。それはずっと止まっていた時計が動きだしたような感覚。
 ピアノに向き合うと俺は右手をゆっくりと鍵盤に下ろした。ほぼ同時に左手を下ろす篤博。
 そしてノクターンが始まった。
作品名:ノクターン 作家名:尾崎チホ