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ほくろ

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「本屋で立ち読み? それが私にとってどれほどの贅沢なのか、あなた、何も分からないのね。私にはそんなこと、したくてもできない。唯愛が生まれてから一度だって、自分の気の向くまま出歩けたことはないのよ。あなたのその何気ない自由が、私には垂れ流しに思えるの。垂れ流すのなら、どうして私に与えてくれないの。あなた、本当にぜんぜん分かっていないのね」
 電話はそこで切れた。ますます家に帰りづらくなった。
 暗い夜道を歩く。自宅への道のりがこれほど憂鬱な日はなかった。あるいは、これから一生この道を歩くのだという予感がそう思わせたのかもしれない。
 いっそすべてを投げ出して、どこか遠くに行きたかった。何もかも面倒くさかったし、煩わしかった。重い足を引きずるように、僕は歩いた。負荷。荷重。その意味を初めて理解した気がする。
 玄関の鍵を回し、ドアを引くと、湿った煙草の臭いが鼻先を取り巻いた。
 リビングに入ると、妻が背中を向けて座っている。
「ただいま」
 僕がそう言うと、妻は横顔を見せるだけで、黙って煙草の煙を吐き出した。テーブルには、灰皿変わりのツナの缶詰があった。細長いフィルタの、先の曲がった吸殻がいくつも押し込まれていた。
「一体どうしたんだよ」
 腕に触れようとすると、妻が大きく振り払った。拍子にテーブルのグラスが僕の手に当たり、ゴトンと転がり落ちる。中身が撒かれ、ウィスキーの臭いが広がった。
「酒を飲んだのか」
 妻は真顔で僕に尋ねる。
「お酒を飲んで、煙草を吸って、どこか変? 唯愛には迷惑をかけてないわよ。空気清浄機をつけて隣の部屋できちんと寝かせているんだし。親の義務は果たしているつもりよ。よく聞いて。あなたより、私の方が頑張っているなんて言ってないからね。でも、少なくとも、あなたと同等くらいには果たしているつもり」
 妻の指の間に挟まれた煙草から、細く煙が上っていく。妻が手を動かし、それを口もとに持っていく。
 一体、彼女の気に添える返答は何なのだろう。もう一杯酒を勧めて、煙草に火をつければいいのか。僕は黙って、床に散った酒を雑巾で拭き取った。妻は無言でそれを見下ろしている。
 僕は冷蔵庫を開けた。尾頭付きの鯛の刺身が、天を睨むような格好で皿に盛られていた。まさかこれを作ったのか、と聞こうと振り返ると、そこにはもう妻の姿は無かった。寝室のふすまが閉ざされる音が聞こえる。追いかけようかと思ったが、とどまった。
 僕は冷蔵庫から鯛を取り出した。上から醤油をかけて、そのまま手で食べた。むさぼるように口の中に入れる。切り口がざらついていて歯ざわりが悪い。なるほど素人が作るとこうなるのか、と納得しながら、身をそぎ落とされた鯛の骨が見えるまで、もくもくと手を動かし続けた。
 
 それから週末までの数日、妻は静かなままだった。だから日曜日の朝、目が覚めると隣に唯愛がいて、妻の姿がどこにもない、ということが起ころうとは夢にも思わなかった。唯愛はつやつや光る頬をたるませ、僕の横で眠っていた。
 キッチンのテーブルの上には、粉ミルクと哺乳瓶が用意されていた。その隣にメモがある。スプーンすりきり4杯で200、4〜5時間おき。書き置きはたった一行だけだった。
 僕は頭を振りながら苦笑する。今日一日、唯愛の面倒をみるくらい、何でもないことだ。妻に休養が必要だということくらい、よく分かっている。自分の中の余裕を確認するように、僕は微笑を浮かべる。しかし、抱えるほど大きな粉ミルクの缶を前にすると、不安が頭をもたげてくる。まさか妻は、この缶が空っぽになるまで帰ってこないつもりなのだろうか。僕はそんな自分の考えを笑い飛ばし、痒くもないのに頭をぽりぽり掻いた。どういうわけか、急に喉が渇いて仕方なくなった。冷えたオレンジジュースを飲みたい、そう思って僕は冷蔵庫の扉を開けた。
 開けた瞬間、そこから動けなくなった。クッキー、パイ、タルト、マカロン、シフォンケーキ、バターケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキ、マフィン、プリン、ゼリー、ムース、……。いつの間に作ったのだろう。ただひたすら所狭しとお菓子が並んでいる。
 思わず僕は冷蔵庫の扉を閉めた。が、再び開け、今度は注意深く中を見渡した。
 卵だとかわさびのチューブだとか、昨日見かけたはずの豆腐もないし、パンに塗るバターもなければ、ケチャップもない。味噌もない。塩昆布もない。梅干も消えている。朝に食べようと目星をつけていたヨーグルトもない。このヨーグルトは妻が牛乳を加えて菌を発酵させ、延々と作り続けてきたものだったのに。
 冷蔵庫の中は、ただひたすらケーキやタルトで溢れている。扉のポケットにはゼリーやプリン、野菜室には果物のコンポートやシュー、エクレア。大福もち、黒糖饅頭、羊羹まである。冷凍室の扉を開ける時にはもう中に何が入っているのか、おおよそ分かっていた。そしてそこにはやはり、アイスクリームとシャーベット。
 僕はほとんど何も考えることができなかった。頭がぼうっとするまま手を伸ばし、一番小さいクッキーを口に入れた。さくっとした歯ごたえがし、ココナッツの繊維が歯に当たる。血糖値の上昇を感じながら、続けて二、三個口の中に放り込む。食べ始めると止まらなかった。チョコチップの入ったマフィンを掴むと、ほとんど二口で呑み込んだ。パウンドケーキを取り出し端からかぶりつく。上に乗っているレモンの輪切りが、蜂蜜でも塗ったのか、ぴかぴかしてきれいだった。鼻を抜けるような甘酸っぱい香り、甘さを控えたスポンジ。手に取ったケーキは瞬く間になくなった。
 僕はゼリーを喉に滑らせながら、妻のことを思った。もっと早く気付くべきだった。そう思った。プリンのカラメルソースを混ぜる。絶妙な苦みがうまさを高めている。僕は妻の細い指先を思い描いた。ムースにスプーンを入れる。気泡が破れる繊細な音が聞こえた気がした。僕はそれらすべてを頬張った。
 唯愛が泣き出した。僕はいよいよ始まったと思った。
「ゆあ、大丈夫。パパがいるからな」
 僕は口の中のものを咀嚼しながらそう言い、唯愛を抱き上げた。唯愛は顔を真っ赤にして唇を歪ませて泣いている。明らかに怒っていた。
「今日はどうしたってママはいないんだ。仕方がないだろ」
 唯愛は身をよじってますます激しく泣く。
 唯愛を持て余しながら、僕は、会社の女の子のことを思い出した。
 新婚だった彼女が、赤ちゃんができたんですと嬉しそうに報告するのを、やましさのかけらもない顔で、それはおめでとうと祝福した。
 仕事のミスを追及したら、すぐに涙を浮かべるような子だった。その甘さに苛々することもあったけれど、笑顔が文句なしに可愛いらしく、彼女はそれでいいじゃないかと思わせるのが上手かった。
「予定日は四月なんです。いろいろ、教えてくださいね」
 まだぜんぜん膨らんでいないお腹に、白く瑞々しい手を当てながら言った。
「それは楽しみだね」と僕は答えた。
 僕は以前、彼女夫婦から唯愛の誕生祝いをもらっていた。僕の子育てを信頼しているという風に、彼女はにっこりと微笑んだ。教えられるようなものは何もない。それなのに、彼女は疑うことなく無邪気な笑顔を僕に向けてくる。
作品名:ほくろ 作家名:なーな