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ほくろ

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 私は窓の外に視線を移す。空は一面薄い雲で覆われ、グレーに染まっている。今にも降り出しそうな気配がする。きっと雲の上には停滞前線が隠れているに違いない。赤と青の凹凸が順に並び、出番を今か今かと待ちわびているだろう。

 すべてをタイミングのせいにすることもできる。
 ここには、夫の転勤によって引っ越して来た。出産間際でもあったし、すごくばたばたした転居となった。新しいカーテンを買わなくてはいけなかったし、感じの良い産院を見つけなくてはならなかった。赤ちゃんの性別が女の子だと分かったのもこの時だったし、ピンクの産着やパステルカラーの布団、ベッドのレンタル、丈夫なベビーカーを探すのに忙しかった。
 新しい生活。新しい命。不安を探す発想もないくらい、希望に満ちた慌ただしさだった。
 だから当初は何もかも楽観的だった。適応能力には自信があったし、そのうち子育て仲間も見つけられるだろうと思っていた。
 私には、新しい友人が必要だった。公園に行けば誰かいるはず。そう思ってベビーカーを押して外に出た。そこには小さなこどもを連れた母親たちがいた。おはようございます。目が合ったからそう言ったけれど、母親たちはかすかに会釈をするだけで何も答えてくれなかった。
 一歳くらいだろうか。よちよち歩きの子どもたちが砂場で遊び、母親たちはお喋りに興じていた。でも、まだ歩けない唯愛を遊びに加えることはできない。私は近くのベンチに座って時間を潰した。悲しい顔をするわけにいかない。私は優しく唯愛に向かって笑いかけた。
 私は唯愛をベビーカ―から下ろして膝の上に乗せた。花びらを拾って見せ、さくら、と教える。母親たちがちらりと私を見た様な気がする。多分にこやかな笑顔だった。温かさ、善良さをたたえ、私たちの存在に一瞥を投げた。でもそれだけだ。
 気が付くと一日中誰とも話さない日だけが増えていった。
 唯愛のためにも何とかしたかった。私は市に電話した。市が主催する幼児教室の紹介をネットで見つけたからだった。対応に出た職員は男だった。
「はい、何でしょう」と言う男は、私が話すことにしか答えないつもりのようだった。ホームページには何も書いていなかったから、私はいちいち質問しなければならなかった。
 何曜日にありますか。何時からですか。どこで。次回はいつ。
 男はそのひとつひとつに答えてくれるものの、横柄さを隠そうともしなかった。私は尋ねた。
「何歳から参加できますか」
 男は答えた。
「さあ、えっとね。二歳からだね」
 私は諦めきれなくて更に食い下がった。
「まだ生まれて半年にもならない子なんですが、それくらいの子が、参加できるようなサークルはないのでしょうか」
「ないですね」
「その二歳の教室に混じるということは、無理でしょうか」 我ながらバカな質問をしたものだと思う。男はくっくっと笑った。
「無理です。大きくなるまで待ってください」
 たったひとりの赤ちゃんがいるというだけで、まるで世界から追い出されたような気分だった。いつ泣き出すか分からない唯愛と一緒では、美術館や図書館、もちろん映画館も無理だった。電車に乗ってどこかに出掛けるのも同じことだ。ちょっとした外出となっても、オムツや着替えなどで荷物は膨らむし、もしも授乳場所が見つからなければ、公衆トイレで済ませなければならない。そんなことを考え始めると、出掛ける意欲さえなくなってしまった。
 いっそ、唯愛を保育園に預けて働こうかとも思った。そうすれば私も唯愛も、それぞれの社会欲が満たされるはずだし。
 もっとも、私が得られる時給など、保育園の費用にはとうてい届かない。言い換えれば、唯愛の犠牲付きで、社会欲をお金で買うということになるのだろう。ただし、その矛盾を押し曲げてでも、私にとって意味のあることには違いなかった。
 けれど、保育園での事故の報道を見るにつけ、必要に迫られてもいないのに危険を冒すことは、私自身が自ら子殺しの加担者になるという思いがしてならなかった。先生の過失、施設内の虐待、級友による圧死。確率で言うと、予防接種の副作用に当たるよりも高いに違いない。
 何をするにしても、しないにしても、私の心の中で、せめぎ合いや対立が生まれた。私はその波にやすやすと飲まれた。私を覆い尽くす、私の中の葛藤。
 でも、それ自体がどれほど無意味なものなのか、もう私は知っている。鈴の音に驚き目を見開く唯愛の顔。丸く小さな指先がぎこちない動きをし、興味の方向を指し示す。唯愛がこの世界に新しい発見をし、それが笑顔になってこぼれおち、そして喜びを共感したがるように、抱いてと私に向かって両手を差し出した瞬間、私の中の葛藤、その何もかもが、意味を失って崩れていった。唯愛を抱きながら、私は泣いた。
 今では家にいることがほとんどだった。スーパーに買い物に出かける時以外は、ずっと家の中で唯愛とふたりきりだった。あれからも何度か、公園の母親たちにも近づこうとしたことはある。けれどすでにネットワークが張り巡らされたようなその雰囲気に、私が入り込む余地はどこにもなかった。だから、子育て仲間を見つける方法は、未だに分からないままだ。
 夫はきっと何も気づいていない。仕事も順調で、給料もきちんと入れてくれる。そんな夫に憤りをぶつけるのはフェアじゃない。そんなことは分かっている。だからこそ余計に、夫に対して苛々するのかもしれない。
 考えないようにしているけれど本当は、私は母親向きの人間じゃないのかもしれない。子どもは一人でたくさんだった。あの苦しいつわり、体の変化、出産時の身がちぎれるような痛み、そして何より、産後に味わった不安が恐ろしかった。
 出産直後は、ひと段落ついたような心地だった。大きな仕事を無事やり終えた気分で、私は満足して眠った。夜が明けて、私は夫に支えられながら新生児室へ向かった。
 ガラスの向こうに、私たちの赤ちゃんがいた。きちんと対面するのは初めてだった。私は赤ちゃんの顔をじっくり見た。私は夫に気付かれないように微笑むのがやっとだった。信じられなかった。一体この子は誰なんだろう。私の赤ちゃんは、どこに行ってしまったのだろう。ガラスの向こうの赤ちゃんは、まるで私の知らない個体だった。
 新生児ベッドの中で眠るその子は、顔も身体の形も、何だかとても、いびつな感じだった。その子が、自分のおなかの中にいた子と同一の存在だとはどうしても思えなかった。私は混乱した。空っぽになったお腹が寂しかった。大切な赤ちゃんを喪ってしまったような、そんな寂しさだった。
 私は辻褄の合わない喪失感に振り回された。入院していたベッドで毎日泣いた。涙を流し過ぎると、頭がとてつもなく痛くなるというのも、飼い犬を亡くした時以来だった。
 産後の精神的な落ち込みは、誰にでも起こることだからと母はそう励ましてくれた。だからと言って、解決は時に任せるしかないのだろうか。マタニティーブルーは去ったものの、今度は娘が二歳になるまで孤独が約束されているのを知らされたのだ。
作品名:ほくろ 作家名:なーな