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ほくろ

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 唯愛は僕の腕の中で、体を弓なりに反らしている。唯愛は泣き続ける。どうすれば唯愛にとって最善なのかが分からない。僕は、再び唯愛を布団の上に寝かせた。
 けれど、抱き上げても寝かせても声の音量は変わることなく、ぎゃあぎゃあと泣き喚きながら手足をばたばたさせる。発狂するんじゃないのか、と心配になるほどだが、実際気が狂いそうなのは僕の方だった。言葉も話さない唯愛に、どう分からせればいいのか、見当もつかない。
 そうだ、ミルクだ、と思って、僕は慌ててキッチンに向かう。真新しい哺乳瓶に粉ミルクをスプーン四杯入れた所で、お湯を沸かしていないことを思い出す。コンロに火をつけ、その間仕方なく、布団の上で泣き叫ぶ娘に向かって、にこにこと笑いかけてみる。上も下もなく、ばったばったと手足を引きつらせ泣く姿に、ひきつけを起こしはしまいかと不安になり抱き上げる。しかし泣き声はやまないし、胸を蹴飛ばされ身を捩じらせるような抵抗にあうし、父権を完全に否定されているようで、早くも自信を失くし、また娘を布団に下して、キッチンと寝室の間を無意味にうろうろする。
 ようやくお湯が沸いた。沸騰する泡のはじける音に、僕はわずかに落ち着きを取り戻した。水を温めると、お湯になる。必ず、お湯になるのだ。いきなり水蒸気に変化したりしないし、ましてや氷になることなどあり得ない。そんな自明の理、規則正しさに、すがりつきたくなる。
 泣き声が急にやんだ。ほっとして寝室をのぞくと、シーツがもぞもぞ動いている。そこからくぐもった泣き声が聞こえる。慌てて剥ぎ取ると、再び火のついたように唯愛は泣き出した。気が付かなかったら、窒息死していたかもしれない。
「ゆあ、ゆあ」
 僕が名前を呼んでも唯愛には聞こえないみたいだった。唯愛は泣き続ける。口を開け、飛び出した舌が震えている。抱きかかえても、柔らかな身体は強張る一方だった。
 僕は開いている唯愛の口に哺乳瓶の先を押し込んだ。飲めよ、ほら。願うようにそう呟いている。けれど唯愛はぎゅっと目をつむって泣くばかりだ。まるで、世界で何が起きようと絶対見やしないとでも言うように。
 僕はなおも哺乳瓶の先を押し込む。唯愛はせき込んでしまう。細く息を吸い込む音、泣き声、咳。そのせわしなく頼りない呼吸に、このまま死なせてしまうんじゃないかと、気が気ではない。
 僕はミルクを諦めて、唯愛を抱き上げたまま部屋中を歩きまわる。背中をさすりながら、ただやみくもに歩き回る。するといくらか泣き声は小さくなった。僕はさらに歩き回った。狭い8畳のスペースを、何かの競技のように必死で歩いた。僕は額に汗を浮かべている。布団もシーツも何もかもぐちゃぐちゃだった。
 僕の歩く振動に唯愛が揺れ、その小さな手で僕のシャツを握る。少しでも歩みが遅れると、泣き声の予兆のような声が漏れる。
 歩けばいいんだな、そうなんだな、と僕は思い、そのまま靴を履いて外に出た。
 どんより曇った空だった。僕は何も持たずに唯愛を抱いたまま、ずんずん歩いた。外の景色を目に映して、唯愛の口はぽかんと開いている。僕のシャツを掴む手の力は、さっきより強くなっている。でも、少なくとも今は、泣くことを忘れているらしい。それだけで十分だった。
 駅前の商店街を抜け、本屋の前をとおりすぎ、川沿いの遊歩道を歩く。店の軒先、すれ違う人、街路樹の葉っぱ。唯愛の濡れた目はじっとそれらを見つめている。頬をかすめる空気や景色に、交流を図っているのかもしれない。唯愛、と僕は名前を呼んでみる。でも、唯愛の僕を見る目は無表情だ。あまりに妻の顔にそっくりで、僕の方が先に目を逸らしてしまった。
 川沿いを進み、公園に出る。滑り台があったので、座らせてみた。僕が手を離すと、唯愛はずるずるとだらしない感じで滑った。これでも僕としては喜ばせようとしてやったのだ。
 唯愛は泣きだした。僕に向かって両手を伸ばしている。抱き上げると、泣き声は小さくなった。こわかった? と聞くと、やはり表情はなく、だまって僕の顔を見つめ返す。
 僕はベンチに腰かけ、膝の上に唯愛を乗せた。空を見上げて灰色の雲を指さす。そら。くも。まったく手ごたえがない。僕の言葉が届いているのかいないのか、さっぱり分からない。唯愛の目は動かない。
 ぽつりと雨粒が落ちてきた。
 傘を持ってこなかったことを後悔しても、もう遅かった。帰りの道のりを想像して、僕はうんざりした気分になった。家に着く頃にはずぶ濡れになっているだろう。ため息を隠す必要もない。どうせ唯愛には何も分からないのだから。
 半ば投げやりな気持ちで乱暴に唯愛を抱えて立ちあがったとき、またぽつりと雨粒が落ち、唯愛の頬を濡らした。そのとき、唯愛が「あ」と小さな声をあげた。
 ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてくる。唯愛は空を見上げた。そのときにはもう、次のしずくを数える間もなく、雨は勢いづいて降り出していた。
 唯愛は「あ」と言った。唯愛の瞼にしずくが落ちる。驚いたように睫毛をしばたたかせ、また唯愛は「あ」と繰り返した。
 僕は再びベンチに腰かけた。雨が僕らを濡らした。
 僕は人差し指を立てて空を指さす。そして「あめ」と答えた。唯愛は掴んでいた僕のシャツを離し、ぎこちなく指を操ろうとする。小さな指を折り曲げながら、不器用ながらも僕を指差そうとする。そうだ、「あ」だ。僕は唯愛の指の動きを手伝い、人差し指を立ててやった。
 僕は濡れた唯愛の髪を撫でた。薄い髪はぺったりと頭の形どおりに貼り付いている。丸い頭の形が、僕の手の中でしっくりと収まる。
 しずくを垂らしながら僕は笑った。あめ。これがあめ。唯愛は濡れながら、笑顔をみせた。小さな口が喜びに開き、あ、あ、あ、と繰り返し僕に向かって放たれた。
 
 家に戻ったときにはすっかりびしょ濡れだった。
 むずがる唯愛を何とか着替えさせ、オムツも替えた。再び機嫌が悪くなり、泣きだした唯愛に、キッチンの冷えたミルクを飲ませてみた。雑菌の繁殖の為に、作り置きミルクはタブーだと、そんなことを知ったのは、随分後になってからだ。
 唯愛は、突然飲み出した。ものすごい吸てつ力で、ぐんぐん哺乳瓶の中身を空にした。その間、唯愛は僕の人差し指を握っていた。それは結構な力だった。僕は指に唯愛の全身の力を感じた。僕の目を見つめる唯愛の目、きゅっと僕の指を掴む小さな手。その間にも哺乳瓶のミルクはどんどん減って行く。
 
 すやすやと眠る唯愛のそばに横たわり、暖かい娘の体温に頬を寄せる。僕は初めて娘に対して、安らいだ気持ちを感じていた。唯愛を泣き止ませ、ミルクを飲ませ、笑わせ、遊び、寝かしつけた。
 普段の僕だってそのくらいはやっている。にも関わらず、たったそれだけのことが、まるで違った別の世界を僕に見せた。
 唯愛の温かな手足や、柔らかい髪、肌の甘い匂い。それらを腕に包むと、まるで自分の体が娘の体を介して呼吸しているような気がした。唯愛の体温は、確かに妻に似ている。そんな気がした。
作品名:ほくろ 作家名:なーな