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ハピネス

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「とにかく、マリは働き過ぎなんだって。金縛りが始まったのだって、学校休んで働き始めてからだろ? 学費を稼がなくちゃいけないのは同情するけど、でもそれがストレスになってるんだよ。ここ二カ月近く、ほとんど休みなく働いてるし、体もキツいだろうけど、一番キテるのは神経じゃないのか。時々、切羽詰ったような顔をしてるの、気づかないか」
「え、私、そんな顔してる?」
「うん、バイトから帰ってきたときとか、すごい形相になってる。てゆか廃人ぽい。てゆか好きだけど」
「……」
「いや俺、心配してるだけなんだけどさ。まじで好きだよ、マリ。なあ、しばらく学校のことも忘れて、バイトも休めば。バイトはインフルエンザとかなんとか言えばオッケーだって。その間俺のところにいればいいだけだし、問題ないし。あー、インフルは嘘くさいか。ほら正樹がさ、ヤフオクで出品したスニーカーを落札した奴がいたんだけど、連絡も入金もせず、放置されてさ。それで落札者の評価を最悪にしたら、逆切れ返事が来てさ、その言いわけがインフルで寝込んでて連絡できなかっただけなのに、評価最悪にされてひどいですって返信。まさしく最悪な落札者だよな。だからインフルの言いわけはうそくさいかも。なんかほかの言いわけ考えないとな。ていうか、やべ、おれバカじゃね? あと三時間しか寝れなくない? また明日考えよう。マリ、好きだよ。だめだ、俺、まじもう眠いよ」
 目を閉じた哲夫は、すでに寝息を立てている。驚くほど呆気ない。耳にかかる哲夫の規則正しい呼吸を、残されたマリは聞いている。
 好きだ、好きだ、と言う哲夫の好きは捉えどころがなさ過ぎて、すぐに見失ってしまう。好きという言葉を形にして、自分の傍に置いておけたのなら。いつでも手で触れて確かめることができたのなら。きっと、今よりもっと、哲夫のことを近くに感じることが出来たのかもしれない。そんなことを考える。
 マリは囁く。
「私、眠るのが怖いの」
 ?、とわずかに哲夫の呼吸が動くが、そのまま寝息に戻る。
 マリは半身を起こして、真上から哲夫の寝顔を眺めてみる。筋肉は脱力しきって平べったく伸びている。穏やかな息を吐き続け、哲夫は眠っている。その息を間近で吸いながら、マリは哲夫の柔らかな睫毛をじっと見る。マリは、自分はこんな風に眠ったことはあるか、と自問する。答えは、ない、だった。
 マリにとって眠りは、疑いながら踏み込んでいく暗闇だった。どこに振り落とされるか分らないから、眠りに落ちる瞬間が一番怖い。自分の意思なんて通用しない、完全に無力であることを思い知る。
 分かってくれない哲夫に隔たりを感じる。でも、だからこそ哲夫が必要なのだとも思う。マリは哲夫の寝息を聞いている。哲夫の寝息は規則正しい。揺らぎのない正しい呼吸と一緒なら、少しは迷わなくても済むかもしれない。マリは哲夫の呼吸から離れないように、息を合わせながら、目を閉じる。

 落ちる。眠りに入るとき、マリはいつもそう思う。
 夢に落ちる。この落ちる感覚は、あの金縛りの前兆と同じだった。いけない。このまま眠ってはいけない。また金縛りにあう。そうは分かっていても、膨大な意識の欠落は、堰き止めようのない落下だった。マリは自分が、滝の中の一滴になったように感じる。滑り落ちる激流の圧力が全身を覆う。耳が割れそうなほどの轟音が鳴っている。その轟きは耳の奥まで侵入し、あっという間に鼓膜を破ってその先まで埋め尽くす。これは耳鳴り、金縛りの響きだ、辛うじてマリの意識は夢と現実に区別をつける。その僅かな隙間にさえ、轟きがなだれ込む。抗いようもなく、マリは落ちる。 

 真っ白い雪だった。母の後ろ姿は容赦なくマリから遠ざかっていく。
 待って、待って、ママ、ごめんなさい、待って。
 マリは泣きながら叫ぶ。周囲には何もなかった。あるのはただ白い雪だけ。
 大人にしてみれば、その雪は足元を濡らす程度だったかもしれない。けれど三歳のマリにとっては、かき分けないと前に進めないほど深い雪だった。
 泣きながら叫んでも、母はマリを許そうとしない。
 マリは泣きじゃくり混乱するうち、一体自分が何をしたのか、その原因が何だったのかが分からなくなる。母の背を追い、必死で泣き叫びながらマリは思い出す。マリは、ママの大切な大切な大切な神さまのご本に落書きをしたのだった。
 マリは叫ぶ。
 ママ、ママ、ごめんなさい、ごめんなさい、神さま、ごめんなさい。
 涙がのどを伝って不安定な呼吸と溶け合う。吸い込んだ息にむせたマリは足元をもつれさせて転ぶ。
 雪が顔を埋める。耳まで雪が入り込み、もがいた手は雪にからめとられるように、ずぶずぶと沈んでいくだけだった。呼吸が苦しかった。マリは雪の中で目を開ける。何もかも真っ白だった。まぶしいほどに真っ白で、息ができなくて、白い光だらけで、これが神さまの色なのかもしれない、とマリは思う。白い光はどんどんまぶしくなって、目を開けているのが辛くなって、頭がぼうっとして、感覚がなくなっていく。白い光に溺れる中、マリはただ、雪の冷たさを全身に感じている。

 夢から身体を引き剥がした瞬間、マリは息を吸い込む。身体中が空気を求めている。夢を見ながら同じように、呼吸を止めていた。心臓がばくばくしている。
 マリは深く息を吸い込む。隣には哲夫がいる。何の変わりもなく穏やかな寝息を立てている。マリは哲夫の肌に触れる。はっとするほど温かい。哲夫の高い体温を感じて初めて、マリは自分の手の冷たさに気がつく。夢の幻影が離れない。手のひらに雪の感覚が残っている。白い雪のかけらが、黒い雪の気配が、ひっついているみたいだった。
 不安で不安で仕方がない。眠っている哲夫を揺り起こそうかと考えるけれど、哲夫に触れると、自分の手が溶けて、水になって、消えてしまうんじゃないか、そんな思いまで湧いてきて、怖い、と思う。
 マリは、ベッド脇の棚から小さなプラスチックケースを引き寄せ、錠剤を口の中に入れる。そのまま飲み下すが、錠剤が干からびた喉につかえる。
 哲夫が寝返りを打って、ベッドが揺れる。哲夫の半分しか開かない目がマリを捉え、気だるそうに瞬く。
「いまなんじ?」
 焦点が合っていない。
「もうすぐ九時半」
「おれ、今日は昼から授業だから」
「分かった。私はもう行かなくちゃ」
「バイト? 休めば? インフルは? 学校は?」
「学校は今日も行けないと思う。インフルは、今の季節じゃまるっきり嘘がばれちゃう。私、バイトに行くね」
 哲夫は、夕方電話するよ、と口の中で呟き、無意味に二、三度頷いてからシーツに顔を埋める。マリは息苦しくなってベッドから抜け出す。錠剤は胃に落ちず、喉のどこかに引っかかったままだ。蛇口を捻って水を飲み、また飲み、続けてまた飲む。おなかが膨らむのが分かる。次第に気持ちが悪くなってくる。トイレに駆け込む。吐く。噴水のように口から水が溢れ出る。最後に、粘っこい唾液が糸のように伸びて、便器の中にゆっくり垂れた。錠剤が水の中に沈んでいく。
 ばかみたいだった。こんなばかみたいなことばかりで、自分の時間が過ぎていくのか。こんなので生きている意味なんてあるのだろうか。
作品名:ハピネス 作家名:なーな