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セクエストゥラータ

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●第四章 結びつける糸


「ユウ、お前さんの言う通りだった」
 携帯電話の通話を終えたパオロは、驚きと哀れみの入り混じった声と表情とを助手席の僕に投げた。
「全部、ですか?」
 僕は運転席のパオロに問い返す。
 パオロの言葉が聞き取れなかったのでもなければ、想像通りだったことを否定したかったのでもない。ただ、自分の中に染み込ませる時間が欲しかっただけだ。
「二つとも、いや三つだな。とにかく全部だ」
「パオロ……僕はこのまま消えてしまいたいよ」
「気持ちは分からないでもないが、それはダメだ」
 パオロは笑っていたけれど、その笑顔は決して僕を甘やかさない厳しさを持っていた。
 僕は笑ってみせた。とても悲しかったけれど、悲しいなりに笑ってみせた。
 パオロに出会えて良かったと思う。本当に。
 誘拐犯が誰なのか、僕はもう分かっている。なぜそんなことをしたのかまでは分からないけれど。でもやっぱりどこかで、僕の想像が外れていれば良いと思っている。
 パオロは煙草を咥えて火をつけた。
 僕の右手は、反射的に窓を開けていた。

 パオロには、二つのことについて調べてもらった。
 一つ目は、僕が持っているこの電話のレンタル契約期間。
 レンタル契約の期間が過ぎてしまえば、この電話は通話ができなくなる。そうなれば、犯人との連絡が取れなくなってしまう。
 ただし、僕が心配しているのはそれじゃないし、知りたかったのもそのことじゃない。
 知りたかったのは、何日までになっているか、ということ。
 パオロに調べてもらったところ、レンタル契約の期間は二十九日までになっていた。日本の次の試合、対イタリア戦の翌日だ。
 二つ目は、出国記録。
 飛行機に乗ったかどうかを調べられないかとパオロに相談したところ、出国記録を照会するのが良いとのことだった。
 刑事であるパオロは、出国記録を照会する手段を持っていたらしい。少々強引な方法を使ったみたいだったけれど、僕には選べる手段がなかった。

 本来なら、僕は昨日の夕方の飛行機で帰る予定だった。レンタルの期間は昨日までのはずだ。それが、二十九日まで契約されていた。つまり、契約する時点で、この携帯電話がその日まで使われることになることが決まっていた、というわけだ。
 勿論、もしもの場合を考えて長く契約しておいた、という弁解も通じる。しかし、出国記録が残っていないことに関しては、弁解の余地はない。
 あの人の出国記録が存在していなかったんだ。
 犯人は、この携帯電話を用意し、僕らにW杯の観戦チケットを持って来た人物。
 黒木信輝。
 黒木先輩なら、周囲に怪しまれることなくスタジアムから奈津美を連れ去ることができるだろう。
 そして、犯人からの電話。
 最初の電話が掛かってきたときは、確かに僕の隣にいた。
 でも、二回目のときは、電話を掛けに行っていて部屋にはいなかった。
 三回目は、日本へ帰る飛行機の中だ。
 これだけを見れば、黒木先輩が犯人として電話を掛けられる可能性があるのは、二回目の電話だけとなる。
 けれど、黒木先輩は出国していない。そうなれば、三回目以降は犯人として電話を掛けることができる。
 黒木先輩が僕の隣にいた一回目の電話、犯人は何を話した?
 何も話していない。奈津美を誘拐したことと、日本は次のイタリア戦に負けろという要求を言って、すぐに電話を切った。
 そして二回目の電話。一回目と二回目の間は、三十分も開いていなかった。犯人と“会話”したのはこの電話が初めてなんだ。
 一回目は、録音しておいた音声を流したか何かだと思う。機械で声を変えていても、声を発する人物が違えば違和感が出る。
 黒木先輩の声を録音した音声を流した共犯者の存在。
 その共犯者の目途も、既に付いている。共犯者に成り得る人物は、一人しかいない。

 犯人は三回目の電話の時点まで、すぐ傍で僕を監視していた。それは、犯人が逆探知への対策を初めたタイミングによって証明できる。
 四回目、ボローニャ中央駅の公衆電話から掛けてきた時点では、僕らは監視されていなかった。
 犯人は、警察署を出たあとの僕らを監視していなかったんじゃなくて、監視を続けることができなかったんだ。
 犯人は、共犯者を迎えに行かなければならなかった。ミラノ・マルペンサ国際空港に。
 そう、共犯者は中村由佳。
 パオロに調べてもらった出国記録は、黒木先輩だけじゃない。そして、出国記録が存在していないのも、黒木先輩だけじゃなかった。
 現在時刻は午前十一時四十分。僕らが乗る予定だった飛行機は、十九時間と二十分前に飛び立っている。
 二人が共犯なら、すべての辻褄が合う。合ってしまう。
 今はまだ可能性の一つとして成り立っているだけのことで、穴はたくさんある。それが僕を僕として維持できる最後の拠り所となっていた。
 出国記録がどんな過程を経て行われるものなのかなんて、僕は全く知らない。日本を出るときだって、何か特別なことをやったわけじゃないから、出国審査のときに勝手にやってくれるものなんだろうと思う。だから、登録し忘れなんてことはないはずなんだ。由佳だけならまだしも、警察官である黒木先輩がうっかり忘れてしまったなんてことは、とても考えられない。

 なんで二人とも出国登録が存在していない!
 どうして黒木先輩の電話は返却されていない!
 二人が共謀して奈津美を誘拐する理由は!?

 心が軋む。
「ユウ、やっぱり体調が悪いんじゃないのか?」
 僕は頭を振って応える。
「そうじゃないんだ、もう少しなんだ」
「?」
 パオロはどうしたらいいのか分からない様子で僕を見ていた。
 僕は肺の空気を全部吐き出して、頭の中までも空っぽにした。
 奈津美が心配で、その不安から目を逸らしたいがために、身近な人間に犯人を求めてしまったんだ。そうすることで、溜まった怒りを発散させようとしていたんだ。
 肺を空気で満たす。日本とは違った空気を吸って、僕は冷静さを取り戻した。
 二人には、奈津美を誘拐する理由がない。
 犯人なのかどうかを確かめる方法はある。けれど、恐ろしくて確かめることなんてできやしない。
 そうだよ、確かめることなんてできない。恐ろしくて。恐ろしいんだ。
 試合で骨折した足のギブスが取れたあの日、僕は自由に動かない足に恐怖した。イメージに付いてこない身体に絶望した。
 一番怖かったのは、フィールドの中で感じられたあの一体感を感じられなくなっているんじゃないのか、という不安だった。
 僕は逃げている。蓋を開ければ箱の中には宝石が入っているのだ、という希望を持っていたいがために、空っぽであるかもしれないという現実から逃げているんだ。
 あの感覚がなくなっていると知ってしまったら、僕は僕の足を折ったあの選手を憎んでしまう。僕は僕自身が一番大切にしているものを、僕自身の手で汚してしまうかもしれない。確かめることなんてできない。恐ろしくて。
 それでも、確かめるんだ。本当のことを。
 もうこれ以上、僕は何からも逃げ出すわけにはいかない。

 疑問は二つある。
 なぜ原田監督に直接連絡しないのか。奈津美の素性をいつ知ったのか。あぁ、それと、なぜ誘拐事件を起こしたのか。
作品名:セクエストゥラータ 作家名:村崎右近