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スリーアローズ
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novelistID. 24135
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潮の香りの町で

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 雲は厚かった。門司港駅を出て、まず僕は空を見上げた。
 名古屋から新幹線に乗り、新下関駅に降りた時には、うっすらと青空も見えていたが、そこから在来線に乗って関門トンネルを抜けるわずかの間に、青空は雲で覆い尽くされてしまったようだ。
 駅前のロータリーを少し歩いてから、たっぷりと時間の染み込んだ門司港駅の駅舎を振り仰いでみる。前回こうやって駅舎を見上げたのは、15年前のことだ。あの時からすると、元々年季の入っていた駅舎に、さらに疲れのようなものが見てとれる。彼はここでじっと、こうして海峡を吹き抜ける潮風にさらされながら、人々の往来を眺め続けているのだ。屋根の下に掛けられた錆びた丸時計は、あと少しで午後3時になろうとしている。
 15年前、僕の隣にはユカリがいた。彼女は大学の同級生で、僕が初めて付き合った女の子だった。僕たちは広島の大学に通っていて、付き合い始めて最初の夏休みに、彼女の実家のあるこの土地を訪れた。
「やっぱ、海はよかね」とユカリは駅前のロータリーから垣間見ることのできる関門海峡に向けて目を細めた。僕が育ったのは山間の盆地だったし、大学も同じような場所にあったので、あの時海を見てさわやかな気持ちになったのはたしかだが、ユカリは僕とはまた違う感慨を込めてそう言ったように見えた。
 ユカリの手はやわらかく小さかった。彼女は初めての女の子だったから、他の女の子の手と比べることなどできなかったが、今になってふと思い起こしてみると、ユカリの手のやわらかさと小ささが身に染みてよくわかる。
「あれが関門橋。それから、あれが巌流島。武蔵と小次郎が決闘したとこね」とユカリはつないでいない方の手を潮風に差し出して説明した。その横顔には、彼女らしい得意の色がにじんでいた。あの時僕たちは門司の町を一通り歩いた。途中でカレーを食べ、クレープを食べた。ユカリは雑貨屋に入って、シルバーのイヤリングを買った。気が付けば同じところを3周まわっていた。海とは反対方向には小高い山がせり出していて、その上の空は青かった。水彩でためし塗りをしたような雲が薄く広がってはいたものの、空は十分に青かった。
 僕は一人で歩きながら、あの時の空を思い出した。そうして今自分の上に広がっている灰色の空を見上げた。季節が寒くなっているせいか、あの時よりも通りを歩く人の数は少ないように感じられる。町全体から活気が失われたように思えて仕方ないのは、今の僕の心が風景に映し出されているのだろうか?
 あの日僕たちはユカリの実家で夕食をとった。彼女の家族は両親と2人の姉、それから1人の弟からなる、6人家族だった。母親は白髪交じりの髪を後ろにまとめ、笑顔のしわが顔中に刻み込まれていた。丸顔の父は、腕を組みつつ家族の会話をじっと聞いているのが好きな風に見えた。2人の姉の明るさはユカリとよく似ていたが、無口でナイーブな感じの弟だけは、ユカリとは違う遺伝子の影響を受けたようだった。あの時母親は僕を見て「ユカリのボーイフレンドたい」と冷やかし気味に言った。するとユカリは「彼氏ばい」と訂正した。そういえば夕食もカレーだった。昼にレストランで食べたものとは違って、母親の手作りの味がした。
 僕はきっとユカリと結婚するだろうと漠然と考えていた。おそらく彼女も同じだったはずだ。しかし卒業を間近に控えた冬に、ユカリの父親が急に倒れた。脳の病気だった。ユカリはさんざん悩んだ。悩みぬいた。僕は苦しみで丸くなった彼女の小さな背中を毎晩撫でることしかできなかった。
 だが、彼女は最終的に、他の兄弟とは違って、家に戻り父の介護を手伝うという道を選んだ。その冬僕は、初めての別れを経験した。例年になく雪の多い冬だった。
 その後ユカリがどうなったのか、僕は知らない。あの子のことだから、きっと地に足をつけて、彼女らしい人生を歩んでいるに違いない。そして15年たった今、僕もそれなりの人生を送っている。名古屋の会社で毎日戦力として働いている。やりがいもあるし、意欲だってある。
 ただ、今日ばかりは、どうしてもここに来たかった。
関門海峡をカモメが舞っている。その向こうにはタンカーがのっそりと動いている。空は暗く重く、僕を見下ろしている。
 夕方まで、僕はこの潮風にさらされていようと思う。 
作品名:潮の香りの町で 作家名:スリーアローズ