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朝日に落ちる箒星

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12.矢部君枝




 さっきの講義は何だか眠くて眠くて、ふねをこいでしまった。途中、隣に座っていた拓美ちゃんに起こされなかったら、きっとずっと寝ていた。今日の定食はちょっと量が多かった気がする。だから満腹で眠かったんだ。今も眠い。
 昨日、智樹に「おやすみ」メールをしたのに返信が来なくて、暫く待っていたら携帯を握りしめたまま寝てしまっていた。今日は実習だったのか、昼食に顔を出さなかったから、昨日メールの返信が無かった事を話せなかった。
 ふらふらの頭で帰り支度を済ませ、講義棟を出ようとしたところで、白衣を着た女性に出くわした。
 一瞬誰だか分からなくて、だけど向こうはこちらの事を分かっている様に笑みを浮かべていたので、はたと足を止め、「星野さん」と声に出した。
「こんにちは。名前を知らないんだけど、久野君の彼女でしょ」
 私はこくりと頷く。そうだ、名前を知らないのか。しかし名乗る必要性も見つからなくて、そのまま通り過ぎようとした。
「ちょっと待って」
 腕を強い力で掴まれ、私は前のめりに倒れそうになった。
「な、何すんの」
 彼女はまるで空っぽな瞳に、むりやり両端をつりあげたような口を張り付けて笑っている。
「昨日の夜、久野君の家に泊まったの」
 ドクン、一度心臓が大きく脈を打った。
「あなた、まだセックスしてないんだってね。彼、我慢できなくて私としちゃったんだよ」
 次は心臓だけじゃない。膨らんで潰れるだけの肺までがおかしな動きをして、私は空気を欲した。窒息しそうな位苦しかった。智樹がセックスをした、だって?星野さんと?何故?私が昨日、出来なかったから?その場で叫びだしたいような気になって、目を見開いて、それでも叫び声も上げられなくて、私はもう彼女の目の前から姿を消していた。
 気付くと走っていた。苦しいのに走るから、もっと苦しくて、そのうち涙が溢れてきてしゃくり上げるから、もっともっと苦しくて、どうして私ばかりこんなに苦しい思いをするのだろうと思うと、もっと泣けてきて、悪循環だった。結局、駅前までずっと走り続けていた。

 駅前でティッシュを取り出し、涙を拭った。違和感があってトイレに入って鏡を見ると、受ける風で乾いてしまった涙が眼の横に線を作っていたので、濡らしたティッシュで拭いた。目は真っ赤だった。
 ブー、と低い振動音が鞄から響いた。智樹だろうかと思い、警戒しながら携帯を見ると、その着信は公衆電話からだった。今時公衆電話から掛けてくるなんて、もしかしたら星野さんがまだ何か言おうと思って掛けているのかも知れない......。
 携帯を開き、通話ボタンを押した。
「もしもし」
 静かに切り出した。
『やべくーん、塁だけど』
 私は口を噤んだ。何だって?
「も、しもし」
『だから塁だけど』
「塁?! 帰って来てるの?!」
『矢部君、今どこにいんの』
「駅だよ。塁は?」
『駅だけど、どこだよ』
 私はトイレで携帯を握っている事に気づき、そのまま外に出た。ロータリーの向こうに見た事のあるカラシ色のダウンが見えた。私は通話を切って走った。さっきまで走ったのとはわけが違う。全然苦しくなかった。そこに、かつて自分を求めてくれた人がいたから。
「塁!」
 私を見つけると塁は右手をひらりと挙げて、スーツケースを引きながら近づいて来た。
「矢部君、目、酷いよ。どうした?」
 私は目に指を当て、少し冷やすようにしたけれど、それで赤みが引くような状態ではない事は先程鏡を見た時点で分かっていた。吐く息が白い。
「色々、あって。塁はどうしたの? もう帰ってきちゃったの?」
 塁は私の頭を軽くトンと叩き「そんな訳ないでしょ」と言う。
「俺の絵の師匠が、日本の商売相手に届けてほしい物があるって言うからさ。ちょっと戻って来てる」
 そうか、と言って、それから先、言葉が見付らなかった。塁に会えたことが嬉しすぎて、さっき起きた辛い事との差があり過ぎて、どうしていいか分からなかった。私は人目もはばからず、塁に抱き付いた。智樹より少し背が低い分、顔が近くに感じる。
「何だ、智樹に調教されたのか。手が早くなったな」
 今は聞きたくないその名前がさらりと出て来てしまうのは、やっぱり塁だからなのだ。塁が大好きだった智樹に私は、裏切られたかも知れないのに。
「ちょっとさ、とりあえず矢部君は何故泣いていたんだ。そこからスタートだ。俺はこれから一週間智樹の家に上がり込むから、時間は沢山ある」
 そう言って、ロータリーにあるベンチに座らされた。今日手にしている手袋が、塁がくれた黄緑色で良かったと思った。
「智樹とはあれから付き合ってるんだろ?」
 私はこくりと頷く。
「キスはした。大人の。」
「調教されたな。それ以上は?」
 私はむくれた口で「うまく行かなかった。途中でゲロ吐いた」と正直に言うと、塁は大声を上げて笑い始めた。
「すげぇな、それ、初めて聞いたわ。矢部君、本当に男性恐怖症なんだな。あぁ、そうか」
 失礼な奴だなぁと思いつつも、これが塁のペースだったかも知れない、とまるで今まで平和ボケしていたように、少しずつ思い出し始めた。
「で、泣いてるのは智樹に関係あるの?矢部君って結構泣き虫だもんね」
 否定できず「泣き虫で悪かったねぇ」と言うと、塁は膝に乗せていた私の手をポンと叩いた。
「智樹の友達、なのかな、大学の子が、智樹とセックスしたって、さっき私に言ってきた」
 それまでヘラヘラしていた塁の顔が、一気に強張って、凍りついた。瞬きもしないまま一点を見つめている。
「まじでか」
「本人に、智樹に確認した訳じゃないけど、嘘は言わないと思うんだよ」
 膝に乗せた手をぎゅっと握りしめた。大学から走って来た時の感情が戻って来たみたいに、胸が張り裂けそうで、苦しかった。その握りしめた手を、塁がぐっと引き寄せ、私を引っ張った。
「智樹の家、行くぞ」
 私はスタスタ歩く塁に引っ張られる形で智樹の家に向かった。
作品名:朝日に落ちる箒星 作家名:はち