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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】 Ⅱ

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 でも、お前の子どもを欲しいっていう気持ちも理解はできたから、黙ってたんだ。必死なお前をうっとうしいと思いながらも、可哀想で口にできなかった。
 しまいの呟きは、紗英子をこれ以上はないというくらいに打ちのめした。
 うっとうしいと思いながらも、可哀想―。
 そうなのか、自分はつまり、直輝に疎まれる一方で憐れまれてさえいたというのか。
 もう、何もかもおしまいだという気がしてならなかった。聞かなければ良かったのかもしれない。だが、それこそ夫婦二人だけで狭いマンションに暮らしているのだ。日中の殆どの時間、もちろん直輝は出勤していて留守ではあるけれど、会社は完全週休二日制で土、日曜は自宅にいる。
 いずれ、お互いの考えていることは遅かれ早かれ表に出ただろう。
 紗英子はこれまで大いなる勘違いをしていたらしい。少なくとも夫が治療に対して肯定的ではないにせよ、治療を強く望む紗英子自身までをも否定しているとは考えたこともなかったのだ。
 だが、今の夫の言葉は、はっきりと紗英子という人間そのものを拒絶していた。
「あなたが私についてどう感じていたかはよく判ったわ。でも、なら、何で今なの? もう幾ら身体を重ねたとしても、赤ちゃんはできないわ。そんな無意味な行為に、何の価値があるというの?」
 紗英子は淡々と言った。
 直輝が形の良い眉をかすかに顰める。
「別にセックスは子作りだけのためにするものじゃないだろ。夫婦の間のコミュニケーションのためでもあるし、男と女の愛情表現としての手段じゃないのか?」
 男と女の愛情表現としての手段。
 思わず笑ってしまう。この男は一体、何を考えているの? ここまで妻を言葉で貶めておいて、今更、愛情表現の手段ですって?
「おい、何がおかしいんだ。俺は真剣に話してるんだぞ」
 普段はあまり怒らない直輝が露骨にムッとした表情を見せている。
「今になって、よく言うわね。お生憎さま、今度はあなたが〝義務〟とやらから解放されて、その気になったのかどうか知らないけれど、私が嫌なの」
「お前、自分が何を言っているのか、判ってるのか?」
 紗英子は唇を引き上げた。
「あら、男はセックスを拒んでも許されるのに、妻は同じことをしても許されないとでも言うの? 私が今夜、あなたの求めに応じなければ、離婚するとでも?」
 紗英子は直輝から顔を背けた。
「好きにすれば良いわ。あなたが好きなようにすれば良い。無理に抱きたければ抱けば?」
「この―」
 直輝の両脇に垂らした拳が震えている。
 結婚して以来、いや、十三歳で付き合い始めてから、夫がここまで怒るのを見るのは初めてのことだ。
 もしかしたら、殴られるのかもしれない。紗英子は眼を瞑った。殴りたければ殴れば良いのだ。それで気が済むのならば。
 紗英子と違って、所詮、直輝の怒りはその程度のものなのだろうから。
 でも、私のこのやり場のない感情はどこに持って行けば良い? 自分の宿命について誰を恨むこともできず、何のせいにもできない、この想いは。直輝のように、誰かにぶつけて済む程度のものなら、とっくにそうしている。ここまで悶々ともだえ苦しむ必要はないだろう。
 直輝はしばらく荒れ狂う感情と必死で闘っているように見えた。紗英子は殴られるのを覚悟していたのだが、彼は固めた拳を最後まで上げようとはしなかった。
 代わりに、ややあって耳に流れ込んできたのは、夫のものとは思えない冷淡な声音だった。
「勘違いするな。俺は何もお前じゃなければいけないほど飢えてもないし、獣でもない。一夜の欲望を晴らせる場所なんて幾らでもあるさ」
 つまりは、何が何でも紗英子を抱きたいとまでは思っていないということだ。夫にしてみれば、セックスが和解、或いは妻の冷えささくれだった心を癒すと考えていたのかもしれないが、それこそ紗英子に言わせれば、大いなる勘違いも良いところだ。
 紗英子にとって、セックスはあくまでも子どもを持つための手段にすぎず、子宮を失い子どもを授かるという夢を永遠に手放した瞬間、最早、何の意味も価値もない浅ましいだけの行為になってしまった。
 つまりは、夫に対して、それだけの感情しか残ってはいないということでもある。もし仮に紗英子がまだ直輝を愛しているのであれば、直輝の言うことも素直に共感できたろう。
 彼の指摘はある意味では、正論ともいえる。セックスは何も子作りのためだけに存在するのではなく、夫婦間のコミュニケーション、愛情表現の一種でもある。誰もがそのとおりだと頷くに違いない。
 ただし、それは夫と妻が互いに愛し合い信頼し合っていればの話で、気持ちがとうに冷め切ってしまっているのであれば、また話も違ってくる。少なくとも、子どもを望んでいる間は、紗英子は直輝を夫として必要とし、愛していたはずだ。むろん、その必要としている気持ちの中で〝子どもの父親〟としての要素が大きく占めていたことは認める。
 それでも、まだ夫への想いは確かにあった。しかし、辛い不妊治療の過程で、幾度も直輝に背を向けられ拒絶されていく中に、紗英子の気持ちもまた直輝と同様に少しずつ冷えていった。
 恐らく、二人の気持ちは不妊治療を始めたときから、少しずつすれ違い、溝は深まっていっていたのだろう。だが、二人ともにそのことについては気づいていながら眼を背け、見ないふりをしてきた。だからこそ、辛うじて結婚生活の破綻を免れていたのだ。
 直輝の方は知らないが、紗英子に限っていえば、今夜の夫のひと言で気持ちも完全に冷えた。蔑まれていたというのもショックだったけれど、いちばん辛かったのは憐れまれていたという事実だ。
「出かけてくる」
 直輝が寝室のドアを開ける気配がした。
 紗英子は背を向け、ギュッと眼を瞑っていた。出ていきたければ出ていくが良い。あなたがいなくても、私は平気だ。
 子どもを持つ夢も失った今、これ以上、何を怖れることがある? もう、怖いものは何もない。
 直輝がどこへ行くかは大体、想像がついた。しかし、そんなことは考えたくもないし、考えるだけの価値もない。男が欲望を一時的に晴らす場所―例えば風俗などはこの小さな町にもごまんとある。
 まあ、それは紗英子の考えすぎかもしれない。直輝は元々、セックスにそれほど執着のある方ではない。妻に一度拒まれたからといって、すぐに風俗店に直行するほどこらえ性がない男ではなかろう。
 或いは馴染みの女の子のいるバーとかキャバレーとかに行くのか。しかし、そこで酒を飲むだけとは限るまい。酒を飲んだ後は、ホテルにでも行って、それから―。
 紗英子はそこで首を烈しく振った。いやだ、これでは、まるで自分が夫の行動にいちいちヤキモキして、妬いているようではないか!
 あんな妻に対して理解のない男なんて、好きにすれば良いとたった今、思ったばかりなのに。しかし、直輝が誰か別の女を抱いていると想像しただけで、まるで心が土足で踏みにじられたような嫌な気持ちになってしまう。
 自分はまだ、あんな冷酷な男に未練があるというのだろうか。自分は考えているより、夫を愛しているのだろうか、誰にも渡したくない、触れさせたくないと思うほどに。
  
♠RoundⅢ(淫夢)♠