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天使は誰も救わない

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近づく地面が恐ろしくて、強く目を瞑った。

   * * *

 ぽちゃん。
 水音に反応して目を開けると、そこは薄い白の世界だった。どこだここ。完全に頭も動き出していないまま身動きし、私は水の中にいることに気付く。正確には胸上まで湯に浸かり、湯船の淵に寄りかかっている状態。
 寝てしまったのだろうか。うっかりすれば顔が湯にダイブするところだった。ゆっくり湯を掻くと、湯船ではない何かにぶつかった。
「おっとヤバイ」
 知らない声と感触に驚いて身を縮ませる。
 うちの風呂は誰かに自慢できるような広さは誇っていない。逆に誇れるような狭さもない、人ひとり座って脚を伸ばすのに不自由しない程度の、極普通の湯船だったはずだ。それに私は親と入浴する歳はとうに過ぎたし、一緒に入浴するような兄弟もいない。私以外がいるはずのない空間に誰かがいる事実に眉根を寄せ、布だろうか、触れていた感触から脛を一度遠ざけ、足裏でそっと蹴りを入れてみる。
「起きたのはわかったから蹴ンな、バカ」
 湯気の向こうに見える人影。
 風呂場にいたのは見知らぬ男だった。もう一人の空間の共有者を認識した私は、自分の置かれた状況にぎょっとする。こっちは全裸、あっちは着衣中。場所は湯船。そんな状況に立たされたとき、人は何をするべきか。
 一、悲鳴を上げる。二、逃げる。
 答えは両方。私は喉が痛くなるぐらい悲鳴を上げ、浴室から飛び出した。
「オイ!」
 逃げるなと背後から聞こえる気もするけど気にしていられない。走って六歩目、私は異変に気付いた。歩を緩めて完全に止まる。
 足元一面、雲だ。実際、雲になんか乗ったことないけど、真っ白なそれを表現するなら雲以外になかった。
 ドライアイスに水を入れたドラマセットがあるのかと、なんとか理性を働かせて辺りを見渡す。湯気のような靄に囲まれていつもの築十三年の脱衣所を確認できず、私は不安と怒りにも似た感情を覚えながらわけのわからなさに元いた場所を振り返った。
 ザブン、と一音。そのあと浴室の扉から、派手に水音を立てながらあの男が出てくる。雲の上を歩いてくるそいつが歩く、周りの靄が晴れていく様を凝視する。
 真っ白な布は濡れていたはずなのに、歩くたび水を弾いているのかさらさらと音を立て、緩やかに身に纏われている。ばさりと一回振るわせた一対の白い翼は身の丈半分程。右手で掻かれているこれまたサラリとでも音がしそうなまっすぐな髪は金色で、短く頭を覆っている。晴れた春の空を映したような青い双眸に、整った鼻筋、例え髪色と同じ眉が激しく寄っていても尚、美形、と評価できる少年。まるで絵に描いたような天使だった。
 でも天使にしては何かが足りない。ちょっと違和感を覚えたその時、頭を掻いていた右手が髪から抜け出し、すっと頭上へと持っていかれた。それから美しい動作で人差し指が右回りに円を描く。するとその軌道が色を成し、ひとつの輪となって現れた。そうだ足りなかったものはその天使の輪。少年の右手が下ろされたあともそこに浮き、歩く頭上十センチから離れないで淡く金色に光っている。
「岡田沙矢子」
 少年は歩みを止めると、私の名を呼んだ。
「オレは天使。名前はまだない。ついでに、怪しいモンでもない」
 名前はまだない? どこの猫だ。つい最近読んだ名作の一文を拝借してツッコミを入れ、半身退く。自ら天使と名乗る人間が怪しくないなら何を怪しいというのだろう。
 ……でも天使っぽい服だしなぁ。翼生えてるしなぁ。天使の輪の不思議見ちゃったしなぁ。ここ雲の上っぽいしなぁ。そういえば何で雲の上なのに立っていられるんだろうなぁ。
 私は状況把握にぶつかりつつ、ふと自分が何も身に纏っていないことに今更気付いた。
「キャア!」
 慌てて胸を隠ししゃがみ込む。その様子を見た自称天使の少年はやれやれといわんばかりに息を吐いた。
「今まで風呂入ってた奴が何を騒ぐかなー」
 いやまあいいんだけどねー、と少年は頭上の輪を出現させた右人差し指を私に向けた。と、肌に何か付いた感触があった。指先から自分の体へ目線を落とすと、セーラー服が身に纏われていた。従姉妹のみっちゃんからのお下がりの制服。濡れていた髪もお下げにきちんと結ばれている。冬服のスカートを捌きながら私は恐る恐る立ち上がる。
「……あなた、誰?」
 再度問う。
「だから言ったろ。名前はまだない」
「……天使だとか言ってたけど? ミカエルとか、ラファエルとか……」
「そんな年寄りのお偉方と生まれたての赤ん坊を見間違うなよ」
 と言われても、ミカエルもラファエルもお会いしたことないし、私。渋い顔をしたままの私を見ながら目の前の少年は問う。
「とりあえず天使ってことは理解したな?」
「……、……まあ」
 理解に相当苦しむけど、納得するしかない。雲の上で私は頷いた。
「よし。改めて岡田沙矢子。お前はもう死んでいる」
 今度は漫画か、とツッコミはさすがに入れられなかった。「はあ?」と首を傾げると、天使の少年は足元の雲を差して目線を下ろす。
「正確にはまだ死んでないけど。お前んち葬儀仏式だろ? だけど天使の印が見つかったんで、冥界をちょうど浮遊中だったオレを鬼が呼んだんだ」
 今度は冥界に鬼。天使が冥界で浮遊、要は散歩か? だんだん私の脳のキャパシティが怪しくなってくる。
「天使の印があるからには、その天使様の導きで天国に逝かにゃならねー」
「……よくわかんないけど、結構融通利くのね……冥界とか天界とか……」
「日本だからな」
 その意味はなんとなくわかる。神社に寺に教会へ行き放題な、宗教に関するそのアバウトさ。だからこそ今面倒なことになっているっぽいけども。あまり優秀そうではない天使の少年……えい面倒くさい、テンでいいや、テンをじろじろ見遣る。
「で、話戻すぞ。呼び止められたものはしょうがないから、お仕事お仕事と、天界まで引っ張って来て」
「ちょ、ちょっと」
「いつ印がつけられたのか記憶の閲覧を……」
「ちょっと待って!」
 慌てて待ったをかける。展開が速い、速すぎる。「何だよ」とテンが不機嫌そうに言う。一呼吸おいて、大事な、大事な質問をする。
「私、……死んだの?」
 テンが金色の片眉を上げる。
「覚えてないのか?」
 全然、と強く答えるとああと頷かれる。
「頭悪そうだもんな、お前。それにまだ完全には死んでないぞ、ここはただの天界。お花畑な天国にはお連れしてませんでしょー?」
 小馬鹿にした口調で私を覗き込む。どうも最初からムカつく奴だったけど、こいつ本当に天使か? 今まで築き上げてきた天使像が見事に打ち砕かれていくんだけど。それってどうなの、自称天使として。
 訝しがる私に、「それ」と制服を作り上げた指が私の左手を差した。紺色の制服の袖があるだけだ。捲くれとジェスチャーされ、手首のホックを外して肘まで捲り上げる。テンが指差す先は、小さい頃から言われている「考えなしのお転婆娘」の象徴である傷痕が多い。猫に引っかかれた傷、犬に噛まれた傷、自転車で転んで石ころで擦りむいた傷。
「違う違う、それ。これ」
 でもテンが指差すのは、新旧の傷痕ではなく、その中に何気なくある黒点らしかった。
「……ホクロ?」
作品名:天使は誰も救わない 作家名:斎賀彬子