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天つみ空に・其の八~恋月夜~【最終章】

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 それでもなお、お逸は真吉に惚れていた。どうしようもないほどに、胸が切なく疼くほどに。
 真吉の眼がお逸を切なげに見つめている。
 その眼は、お逸が〝否〟と言うのを待っていた。
 お逸が想うほど、真吉はお逸を愛してはいない。しかしなお、真吉はお逸に〝違う〟という応えを望んでいる。―そんな男の心があまりにも残酷だと思った。
 その真吉の心を、残酷さを知りながら、なおも真吉を愛さずにはいられないお逸だった。
 違うのだ、そんなのは口から出た出任せで、本当はお逸は真吉以外の男になぞ触れられたくないのだ、他の男に抱かれるくらいなら、舌を噛み切って死んだ方がマシなのだと。
 そう言えたなら、どんなに良いだろう。
「本気よ。根無し草のような暮らしはもう金輪際、真っ平。折角、楽に生きられる機会がめぐってきたのだもの。これを利用しない手はないでしょう。そういうわけだから、私のことなんて、もう忘れて」
 乾いた物言いで、お逸は自分の未練を突き放した。
「それが本気だというのなら、お前はどうして泣くんだ? お逸、俺はお前の今の科白は信じねえ。そんなことを平気で言う人間がそんな風に泣くはずがないじゃないか」
 大粒の涙をポロポロ零すお逸を、真吉がやるせなさそうに見つめる。
「お逸、お前は俺に嘘をついている。な、そうだろう?」
 真吉になおも顔を覗き込まれ、お逸はプイとそっぽを向いた。
「嘘なんかじゃない。私はもう真吉さんと逃げるのは嫌なの。何もかもから逃げるように、びくびくして暮らすのは飽きたの」
 お逸は身をよじった。
「降ろして、もう部屋に戻らなきゃ」
「送っていくよ。こんな身体じゃ、歩くのも大変だろう」
 お逸がピクリと身を震わせた。
 それを、真吉が言うのか。他の男に犯され、嬲り尽くされた身体を大変だろうと、痛むだろうと―。真吉にしてみれば、お逸を心から気遣っただけのことであったが、お逸が惚れた男の口から出たその何げないひと言は、たまらない羞恥を呼び起こすものだった。
「放して!!」
 お逸が抵抗すると、真吉はやむなく手を放した。そっと壊れ物を扱うような仕草でお逸を降ろす。
 お逸は真吉の貌を見上げた。小柄なお逸は、こうして向かい合うと、真吉を見上げるような恰好になってしまう。
 用心棒稼業をするようになって、真吉もまた変わった。以前はどこか優男といった感じだったが、その穏やかさと誠実さを表しているかのような端整な顔には、男らしい精悍さが加わった。
 お逸と真吉は、ほんのひと刹那、見つめ合う。
 真吉は、少し眩しげに眼を細めてお逸を見つめた。これだけはけして口にはできぬことであったけれど、お逸は確かに美しくなった。廓で暮らすようになって以来、ずっと膚を黒く染めたままだったゆえ、その美しさをしばらく眼にすることはなかったのだ。久方ぶりに眼にするお逸の膚の白さが眼に眩しく映じた。
 この半年間で、お逸はますます綺麗になった。その原因が、昨夜の清五郎に抱かれたせいだとは真吉も思いたくはなかったが―。
 男を知ったお逸が以前とどこか変わったように見えるのは、恐らく思い違いではないだろう。今のお逸には以前にはけしてなかった艶やかさ、色香のようなものが感じられた。 お逸を変えたのが自分以外の男だと思えば、真吉は口惜しく、やれきれなかった。いや、自分の男としての矜持なぞ、この際、どうでも良いことだ。お逸がただ、ひたすら哀れであった。何も知らぬまま、男に身体をひらかされ、手込めにされた無垢な少女が不憫に思えたのだ。
 秀でた広い額、整った鼻梁、頬から顎にかけてのなめららかな輪郭、何より深い光を湛えた優しい瞳が大好きだった。真吉に見つめられていると、心から安堵できるようでいながら、その一方で不思議と心がざわめくような、切ないような胸苦しさやときめきを憶える。初めは、こういう相矛盾した感情が何か判らず、大いに戸惑ったものだったけれど、やがて、それが〝恋〟というものであることを知った。
 お逸は惚れた男の貌を記憶に刻み込むように見つめた。
「―さようなら」
 望んでもいないのに、自ら口にした別離の言葉であった。
 真吉の切れ長の双眸が大きく見開かれる。
 愕きに声も出せないでいる真吉に、お逸は背を向けた。
 真吉がじいっとこちらを見つめている。
 それを知りながら、お逸は振り返りもせずに、平気なふりを装って階段を上った。
 涙が後から後から溢れていたけれど、後ろ姿しか見えない真吉には判ることはないだろうと思うしかない。
 だが、実際には、お逸の歩き方はいかにも覚束ない様子で、脚を動かす度にあの下半身に走る激痛に耐えているのは真吉の眼にも明らかであった。
 漸く二階まで上ったところで、お逸はそのまま最上段に座り込む。そこで少し休み、廊下を歩いて部屋に戻った。
 普段なら何ということはないわずかな距離が、今日だけは随分と遠く感じられる。その距離は、即ち、真吉と自分を隔てる遠さでもあった。こんなに近くにいながら、真吉と自分を隔てる溝は深くて、あまりにも大きい。
―もう、嫌われてしまった。
 お逸は畳にくずおれるように座り込み、突っ伏して泣いた。
 幾ら優しい真吉でも、あそこまで手酷い科白を投げつけられ、怒らないはずはない。
 自分は嫌われて当然のことを言った。そう、お逸は真吉に嫌われようと、わざとあんなことを言ったのだから。自ら意図してやったことで、どうして、こんなも傷つかなければならない? 真吉に嫌われようとして言った心ない言葉に、どうして、自分の方がこれほどまでに傷つく必要があるというのか。
 お逸は自分で切り出した別れの言葉に追いつめられ、行き場を失ってしまった。
 泣いている中に、お逸はいつしか泣き疲れて眠っていた。
 夢の中で、お逸は真吉と共に燃え盛るような紅葉を眺めていた。それは半年前、随明寺の大池のほとりで眺めた紅葉だ。紅蓮の焔のように鮮やかな紅葉が二人を取り巻き、赤児の手のひらのような愛らしい葉がはらはらと風に舞っていた。
 夢のような、美しくも儚い光景だった。
 
 久方の天つみ空に照る月の
  失せむ日にこそ わが恋止まぬ

 あの日、お逸は真吉に万葉集の一首、恋の歌を教えた。父がこよなく愛し、お逸自身も大好きな歌のことを真吉にも知って欲しくて。
 思えば、はきとした自覚はないけれど、あの瞬間から既にお逸は真吉に恋をしていたのだ。だからこそ、大好きな歌を真吉にも伝えたいと思った。
―久方の天つみ空に照る月の
   失せむ日にこそ わが恋止まぬ

 お逸は夢の中で幾度も大好きな歌を呟いた。
 夢の中の真吉は笑っていた。以前、よく見せていたように白い歯を見せた若者らしい、屈託ない笑顔で嬉しげに紅葉を見つめている。これが夢だと知りながら、お逸はせめて夢の中では真吉の笑顔が見られることが嬉しくてならなかった。
 この夢が永遠に覚めることがなければ良い。叶わぬ望みと知りながら、心の中で願った。はらはらと零れ落ちる艶やかな紅葉、陽光を受けて燦然と煌めく池の水面。
 すべてが哀しいくらいに綺麗で、懐かしい。 眠りにたゆたうお逸の白い頬を涙の雫がすべり落ちてゆく。その頬には幾筋もの涙の跡が刻まれていた。