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文士ごっこ(prototype)

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トランク一つをぶら下げ、男はホテルの前で足を止めた。憧れの文豪たちが愛した宿。ここでこれから自分も彼らと同じように原稿用紙に向かうのかと思うと心が躍るような心持ちだ、と男は今日何度目かの高揚を深呼吸で落ち着かせて平静を装うことにした。なにしろここは老舗のホテルだ。そして自分は心意気だけなら定宿に立ち寄る文士なのだ。男は自分に言い聞かせて再び歩き出した。
エントランスから瀟洒なロビーに目を奪われながらもフロントに向かい、名を告げると四十代後半くらいの女性がチェックインの手続きを始めた。
(そうそう、こうでなくては)
単なる遊びでの宿泊ならばフロントが若い女性の方が目を楽しませてくれるが、今回は文士としての宿泊である。若い娘のきゃんきゃんと高い声では興が醒めてしまう。落ち着いたトーンで話すフロントの女性に男は安心感や信頼感だけでなく心強ささえ覚えた。
「それではお部屋はこちら、シングルタイプの和室となります。門限等特にございませんが、外にお出かけの際は必ずキーをフロントにお預けください。あと、お連れ様がお待ちです」
シングルで申し込んでいるのに連れとは何か、と訝しむ男にフロントの女性はロビーの一角を右手で指し示した。ソファに少々所在無げに座っているパンツスーツの若い女性を見て男は少々考え込んだ後に思い出した。
今回の宿泊はとある大手出版社の自費出版事業部にて斡旋されているもので、このホテルの既存のプランにオプションとして編集者の原稿催促や進行を見守るサービスを付帯したものであった。男は申込時にオプション希望を出したのだが、その際に確かその事業部から編集者役の者が付いてくるとかいう話だったような、とようやく状況を飲みこんでフロントからロビーへと歩を進めた。
「えーと、イリエさん? 『文豪への誘い』プランをお願いしたミナミですけども」
男が声を掛けるとその女性ははっと顔を上げた。薄化粧のすっきりした顔立ちは及第点、しかしすっきりしすぎて色気は物足りないかな、と男は瞬時に頭の中で女性を品定めした。それに気付いたわけでもなかろうが、女性の対応は男の予想とはいささか違うものだった。
「ああ三並様、お待ち申し上げておりました。ご無事でなによりではありますが、ご予定のチェックイン時間から大分経っていますし、ご連絡もいただけませんでしたのでもう少ししたら一旦社に戻ろうかと思っておりました。携帯に何度かご連絡したんですがお出になりませんでしたので」
微笑みを作ろうとしているが一歩手前、という表情はまだましな方で、言葉にも声音にも棘を隠す様子はない。明らかにこの女性――入江は怒っているのだが、男は全く意に介することなく口を開いた。
「ああ、ちょっとばかり電車を乗り過ごしてね。それに携帯なんか要らないだろ、折角缶詰めになれるプランなのに」
悪びれもせず言い放った男に対し、入江は明らかに呆れた表情を浮かべ、それからため息をついてみせた。
「まあ、ご無事だったってことでよかったです。それじゃチェックインもお済みのようですし、お部屋までご一緒します。お荷物お持ちしましょうか?」
「いや結構。こう見えてもなかなか重たいんで女の子に持たせる重さじゃないからね」
「女の『子』って歳でもありませんけどね」
「そうやってむきになって否定するうちは女の子でいいんじゃないの、図々しくなるとお化けみたいな歳の女が自分のこと女子とか言ってるからね。更衣室と便所以外で誰がてめえなんか女子って分類するかっていうようなのが浮かれててバッカじゃなかろか」
ああ言えばこう言う男に対する返事を諦めた入江が付いたため息は、男の背中にぶつかることもなく力無く消えた。
作品名:文士ごっこ(prototype) 作家名:河口