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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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蒼天の下

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 硫安は、中屋くんが前にいた小学校の理科室から持ち出してきたものだった。あの子は他にも硫黄やら硝酸銀やら丸底フラスコやらいろいろ盗んでいて、僕には赤血塩フェリシアン化カリウムというラベルの貼られた褐色の小瓶をくれた。赤血塩はシアン化物イオンを含んでいると聞いたので、僕は家で飼っていたうさぎに葬式を出してやりたくなって、乳鉢で粉に挽いて青菜に包んでやってみたのだが死ななかった。だから何年かあとに自殺しようと思い立ったときにも、こいつを服用する案は浮かばなかった。
 ただね、赤血塩はいかにも猛毒ですという色をしているので、小瓶の中蓋を取って横倒しに転がしておくと、毒色の中身が少しこぼれて、ああ、これはその脇で瓶と反対向いて腹這いになっている、十二歳の少年ととてもよく似合う。そんな自分の姿と、朝まだき、暗い子ども部屋でその光景を見つけた両親の反応を想像して、そうして作られた涙で枕を濡らしたものだったよ。僕には自己愛性人格障害という病気があったと思うけれども、見ていると、息子よ、お前も怪しいものだね。
 中屋くん、どうしてるか。同窓会など、いちども出てないのでわからない。聞いた話で知っているのは、大学を出て神奈川県にある会社に就職したけれども、すぐに辞めて東大の理科三類に入りなおして……ということまでで、それなら関東で医者でもしてるのか。医者でも。医者かあ。
 息子よ、妻よ。もし僕が医者などしていたらうれしいのだろうか。中屋くんは頭が良かったから、なんでもできた。IQは百五十を超えていて、あのときは小学校に新聞社から取材さんが来たほどだった。勉強は怠けていたから、学校の成績の方はただの『上』だったけど。
 僕があの子に勝ったことと言ったら、覚えているのでは、中学校のトイレでおしっこしていたときのことくらいだ。中屋くんが用を足している左隣の便器が空いているのを見つけて並ぼうとしたときに、あの子はぶっと放庇をした。彼にも僕にも思いがけないハプニングだった。ほんの一瞬だけど、僕たちは凍りついて、一枚の絵の中にいるような気がしたよ。次の瞬間、彼はこちらを向いて照れ隠しに笑ったのだけど、その吹き出した拍子にまた短くぶっ。あとは、おしっこをしている間じゅう、肩を震わせての鼻息と屁の音が、くくっ、ぶっ、くくっ、ぶぶぶっ、とトイレのタイル張りに交互に響いた。
 僕はつられて笑いながらも、中屋くんに勝ったと思った。中屋くんの恥部を知った気分だった。僕は、おしっこの最中のおならは出ないようにできたし、実際そのあと何度か試してみたけど、全部成功した。要は、おしっこを途中で止められるかどうかにかかっているんだ。屁だけを止めようとすると必ず失敗する。それは無様だと思った。
 そんなことでしか勝てない自分を情けなくはなかったのか。いやいや子どものときには、そういう勝ち方は重要なんだ。そういう負け方をしたくないと思っていたからね。あの子は、あの瞬間、たしかに僕に負けたのだ。

 ──ひと降りに何をためらう花曇り。
 ひとりごちて吹き出した拍子に顔の真ん中から何か出てくる。
 ためしにこのキーワードで検索すると、七万五千二百件検出して完全マッチは当然なし。頼みもしないのに三つ四つの文節に区切ってのAND検索でその数では、さては語彙の食い合せだったかと思うものの、「古池や蛙飛び込む水の音」という文字列と入れ替えてみたら七万四千百件。負けてどうするんだと鼻で笑った。ためしに「Full it care car was to become meet not」でやったら二千九百七十万件。世の中、どうなっとるんぞ。
 既視感があった。笑ったからなのか。
 大昔。
 いま五分咲きの桜も週末のエイプリルフールには見ごろを迎えまする、などと女子ニュースキャスターが浮かれていた。それを聞きながら布団の中で手淫の後始末をしていると、居間で電話が鳴るのが聞こえた。M大学の学務係からで、中年の男の声で谷岳《たにだけ》と名乗った。
 ──ええと中川くんね、じつは先日あなたが受験した医学部医学科にひとり欠員が出ています。きょうになって入学を辞退してきた人がいましてね。そこで繰り上がりであなたの入学を許可しますから、もし入学を希望するのでしたら、本日正午までにまずは所定の入学料を納付してください。
 入学料とは入学金のことらしかった。
 思いがけない話だったのだが、すんなり耳に入った。わたしはわが耳を疑ったことなど、いちどもない。むしろ、この筋書きはすでに知っている、というような感覚に包まれていた。落ち着いて応対できたというよりも、じつにわたしは、そのとき学務係が欠員という単語を持ち出すより前に話の全容を知ってしまったように感じていたのだった。
 それでも一瞬、言葉が詰まった。信じられない本当なんですか、などと電話口ではしゃいでみると、まあみんなそう言うわな、ともかく時間には遅れるなよ、と谷岳氏は念を押して話を打ち切った。おめでとうとは言ってくれなかった。掛け時計を見上げると、針が重なっていて十一時の少し前であることを示していた。
 一浪して入った京都の私学に籍を残したまま、地元の国立大学に入学し直そうと思い立ち、受験準備をしてきたのであるが、その電話の二週間ほど前に、わたしはそのM大学の入試に落ちていたのである。翌月から始まる新年度は、都合三浪目に入るわけで、さすがにこれ以上自宅浪人を続けるのは無謀だと判断し、やむなく名古屋に出て予備校に通うべく手続きをしたのだが、初日にあった受講科目選択とチューターとの顔合わせに出ただけで、その日は朝から自宅にこもっていたのだった。
 不自然な姿勢を続けていたからか、受話器を置くなり目がくらみ耳が塞がった。失神に近い状態だった。血の気が耳の後ろから戻ってくる感覚を待ってから腰を上げ、母を電話で呼び出した。当時母は、北東に二十キロほど離れたK市にある、資本金二百五十万円の小さな食品会社に勤務していた。仕事中に何事かと訝る母の声を聞くなり、わたしは重い受話器を両手で握り直した。何度も聞き返す母の声に苛立ちながらも、三分前から始まった急展開をまくし立てた。
 それが終わると、猫を呼んで餌の缶詰を開けてやり、大急ぎでやかんでお湯を沸かすと、炊飯器から下ろしてあった冷飯でお茶漬けを作って流し込んだ。一杯ではもの足りずにお代りもした。何か手を動かし何か腹に入れないと、雰囲気負けするような気がしていた。
 長短の針は半時間後の一直線の形状から折れ始め、十一時半を回るまでになっていた。
 バイパスを使えば平均時速で六十キロは見込めるので、計算では母はもう近くまで来ているはずだと思った。それを待つのに電話機の前で正座しているのも意味がないのだが、ともかくまたそれが鳴るものだからあわてて取った。件の学務係だったのだが、問い詰める口調に変わっている。
 ──どうするの、もうすぐ受付終わっちゃうんだよ、入学する気はあるのか、それともないんですか。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人