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病葉 やよい
病葉 やよい
novelistID. 37900
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「生きてないもの」

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雨、雨、雨。
 雷鳴の連れてきた雨は、あっという間に勢いを増し、非常識と思われるほどの豪雨となった。
 Kは、部屋の窓からそれを見ていた。雨と、雨にまんべんなく濡らされてゆく庭木や、瓦、銀色の車の屋根なんかを、ほおづえをついたりして、物憂げに、けれど実際は特になんの感慨もなく、ただ視界にうつしていた。
 瞬くように、空が暗くなった。あ、消えた、と思った途端、どおん、と雷が落ちた。質量のある音がそのまま降ってきたみたいに、窓の木枠がかすかにふるえた。雨はあいかわらず、ざあざあと降りしきっている。
 窓を開け、網戸を開け、Kは身を乗り出した。窓を開ける音も、蝉の声も、ため息も、すべて雨の中に吸い込まれていった。雨音はやかましいのに、なぜか耳が痛いほどの静寂にも感じられた。Kは叫んだ。わああ、と言葉に乗らない意味を叫んだ。風に吹き流されたしずくが、後頭部をぬらした。
 雨、雨、雨。
 どおん。ざあざあ。
 庭の敷石にも、雨が突き刺さっている。いびつな形の石が寄せ集められ、いびつな道を形づくっている、その上に、雨は直線を描いて落ちてゆく。何本も何本も。
 いびつな道の上に、少女がいた。
 落ちている、と言ってもいいくらい無造作に、そこに立っていた。うぐいす色のちいさな靴。やわらかそうな長い髪。両腕はとろんと下に垂れ、しろい肌が妙に光って見えた。おうい。呼びかけると、こちらを振り仰いだ。肩のあたりで髪が揺れる。黒目がちの、大きな瞳。すこしほほえんでいるように見えた。
 なにをしてるの、濡れちゃうよ。声は唇を離れる端から、柔らかく雨に吸収されて、K自身の耳にも届かない。少女は笑っている。
 濡れないよ。
 鈴の鳴るような声が、雨音の周波数をぞぞぞ、と逆撫でしながら、Kの耳まで届いた。
 どうして。
 生きてないから。
 どおん。
 一瞬、なにもかもが真っ白に光った。空気がふるえる。Kはふるえる窓枠から肘を離して、無意識に頭を守った。水滴が頭皮をつたい、襟首を流れ落ちた。雨で霞んで、隣家の屋根やベランダが身震いしていた。少女の姿だけが、揺れることなくくっきりと、そこに「落ちて」いた。
 生きてなかったら、濡れないの。
 生きてないから、濡れないよ。
 じゃあなぜ、そこに立っているの。
 生きてないから。
 私も雨に濡れたくないよ。
 腕を伸ばす、手首から先が、すぐさま雨粒をうけて濡れてゆく。無数の雨粒が肌を叩く。雨水は腕を伝い、肘の先からぽたぽたと垂れた。皮膚が自分の形と温度を思い出そうとしているようだった。
 少女の髪は、見るからに柔らかく、細い一本一本の間に光を含んでいるようにふんわりとしていて、Kにはそれがうらやましく思えた。だんだん、うらやましくてたまらない気がしてきた。そして宙に伸ばした右腕にだるさがのしかかってくる頃には、うらやましくてうらやましくてしようがなくなっていた。
 どうして私はあの子じゃないんだろう。どうして。どうして。
 雨、雨、雨。
 今すぐここから飛び降りて、あそこに立ちたい、降りしきる雨の中、一直線に落ちてくる雨の中、でこぼこでいびつな石の上、うぐいす色の靴は敷石の形にぴったりとなじむだろう。あそこに立ちたい、そして、大きな声で笑いたい。ゆらゆらと霞む雨のカーテンの向こう側、ちいさな四角の窓枠の中で、ぽかんと口を開けている私を見上げて、私は大きな声で笑うだろう。おかしくておかしくて笑い続けるだろう。笑い声は雨音に柔らかく吸収され、溶けて流されてゆくだろう。けれど、窓枠からこちらを覗く私には、腕を伸ばして死体みたいに頬の筋肉を怠けさせている私には、私の声がはっきりと届くだろう。りんりんと鈴が鳴るように。

「私が雨に濡れないのは私が生きてないからで、私がここに立っているのは雨に濡れないからで、雨に濡れたくない人はこんなところに立たないでしょうから、私はここに立っている。私は生きていないからここに立っているのであって」

 あなたは生きているから、雨に濡れたくないのであって。

 最後にひとつ、雷鳴を残して、雨は悪い夢だったみたいにやんだ。
 Kは濡れた手をひとつ振って水気を払い、肘を腹のあたりの衣服にこすりつけてぬぐった。
 空は急速に光を取り戻したかと思うと、もう夕暮れにむかって傾き始めているようだった。Kは窓枠に手をつき、その様子を見送る。雲の切れ間からにじむ黄色い光が、雨に濡れそぼった庭木や、瓦や、隣家のベランダ、錆びた室外機、こんもりとしたツツジの茂みに、輪郭と影を同時に与えていた。
 どこにいたのかメジロが、枝から電線へ、電線から枝へ、しずくをきらめかせながら飛びうつる。一羽。二羽。濡れた庭はすべてが白く光っていた。
 網戸をがらがらと閉めて、Kは階段を駆けおりた。サンダルをつっかけ、庭へと出る。そこにあるはずのものを見ようとしてみたが、いびつな敷石は、どれも均一に深く濡れた色をしているだけだった。
 振り返って、見上げた。窓枠の向こうで、誰かがくすくす笑う声が、はっきりと聞こえた。