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「神田川」の頃

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 ヒロシは想像でからだが涼しくなった気がしたが、それは汗を出し切ったせいかもしれない。歌いながら、この詞は女性の視点だよなあ、男が女を待たせているのか、普通は女の方が長湯して男を待たせるんじゃないかなと思った。
 二番も歌い終わった。(あなたのやさしさがこわかっただって、すなおじゃないなあ)などと考えながらヒロコが出てくるのを待つ。あなたが書いた似顔絵だって? 映画では人形劇の人形だったなあと思い出す。ヒロシはジュースの自販機に近づいて何を飲もうかなと見ていた。
 「ああ、わたしも飲みたいぃ」と後ろで声がした。振り返るまもなく石けんの匂いとともにヒロコが脇に並んだ。「どれにしようかな」と言ってからヒロシを見て「あんたは」 と聞いた。ヒロシがオレンジと言って硬貨を2個分入れた。「わたしも」とボタンを押し た。ヒロシはジュースを一気に飲み干して、ヒロコの小さな口とやはり小さく丸味を帯 びた顎のラインを綺麗だなと思いながら眺めていた。
 アパートに向かって歩きながらヒロコは「ねえ、神田川歌って」と言うので、ヒロシは「もうさっき歌った」と言った。
 「えっ、いつよ」ヒロコが立ち止まり、ヒロシを見あげて言う。「ヒロコを待っている間」と言って歩き出したヒロシの後ろで。「あなたはもう忘れたかしら」とヒロコが小さい声で歌った。その声は普段しゃべる声より高く優しい声に思われた。「赤い手拭いマフラーにして」とヒロシも歌った。
 「あのさ、さっきも思ったんだけど、何も怖い事がない若い時代にどうしてあなたの優しさが怖いわけ」とヒロシが聞くと、ええ、どうしてそんなことが解らないのというような顔をしてヒロコは「それはね、今まで食べたことのない美味しいものを食べて、でも何かの理由でもう食べることが出来なくなるのがこわいのよ」と言った。ヒロシは少し考えて、「それって別れの予感がするってこと?」と口にして、別れなどという言葉を使った自分に気がつき、ヒロコの横顔を見た。街路灯に照らされたその顔が少し青白く見えて、ヒロシはかすかに別れの予感を感じてしまって、あわてて「そうなのかなあ」と言ってみた。
 「まあ、間違いではないけど」と言ってから少し間をおいてヒロコは「あの映画さあ、暗いよねえ、でも若いからいいけどね」とヒロシを見上げた。
 「うん、こんどは楽しい映画みようよ」とヒロシが言うとヒロコは笑顔になってうなずい た。ヒロコがふと見せる憂い顔も、笑顔もどちらも好きだなあとヒロシは思って、空いている手でやはり空いているヒロコの手を握った。銭湯で暖まったはずの手が少しひんやりと感じて、なぜかまた別れの予感を思い出してしまった。

作品名:「神田川」の頃 作家名:伊達梁川