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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~2

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 多分、文龍は世の女人たちを騒がせた父親ほどではないのだろうが、それでも端整な面立ちをしていることに変わりはない。
 が、凛花が文龍にひとめで惹かれたのは、その外見のせいではなかった。出逢ったばかりの頃、話せば話すほど、凛花は文龍に惹かれていった。どんな話でも最後まで真摯に耳を傾ける文龍は、凛花の意見を女のものだからといって、けして軽んじたり馬鹿にしたりしない。
 使用人に対しても隔てを置かず話しかけるその姿は、凛花の父にも通ずるものだった。何より、文龍の側にいると、春の温かな陽差しにくるまれている仔猫のような気持ちになれる―と言ったら、他人は笑うだろうか。
 文龍と同じように、凛花も生涯を共に歩くひとは彼以外に考えられない。
 その最愛の男に、もうすぐ逢える。普段は義禁府の仕事が忙しくて、二人きりの時間を持つこともままならない。だが、それもあと少しの辛抱だ。今夜、父と文龍との間で正式な祝言の日取りが決まる。文龍とは既に来年の春頃が良いと話し合ってきたから、恐らくはその辺りで決まっただろう。
「―ッシ、お嬢さま(アガツシ)」
 ナヨンの呼び声に、凛花は漸く現実に戻ってきた。いつも、こうなのだ。文龍のことを考え始めると、とりとめもなくなってしまい、他のことを考えられなくなる。
「もう、お嬢さまったら。何をお考えになっていたのですか?」
 笑みを含んだ声音でからかうようにナヨンに言われ、凛花は真っ赤になった。
「なあに、何か言った?」
 狼狽えながらも精一杯平静を装ってみるが、生まれたときから一緒にいる乳姉妹にはすべてお見通しである。
 ナヨンは笑いながら応えた。
「とてもお似合いですよ」
「えっ、ええ。ああ、そうね。首飾りのことだったわね」
 しどろもどろの凛花に、ナヨンは笑いを堪えられないといった風だ。
「お嬢さまが今、何をお考えになっていたか、当ててみましょうか?」
「良いわよ。別に謎解きをしているわけではないのだから。それよりも、本当に今日の衣装にこの首飾りで良い?」
 夕食後、凛花は普段着から晴れ着に着替えている。萌葱色のチョゴリに光沢が美しいやや抑え目の紅色のチマはふんわりとひろがって、さながら花が開いたようだ。チマには全体的に花が刺繍されていて、凛花の持っている数少ない衣装の中では、最も豪華でお気に入りのものだった。
「チマと首飾りの色が同じですから、よく映えますわ。まるで、あつらえたようにお似合いです」
 ナヨンはにっこりと微笑み。
「いつもお美しいお嬢さまが今夜は一段とお美しく見えます。やはり、皇氏の若さまがいらっしゃるせいでしょうか?」
「いやね。人をからかうものではないわ」
 凛花は紅くなった頬を更に染め、プイと横を向いた。
 少し早めの夕餉を終えてからというもの、凛花はずっと鏡の前に座り込んでいるのだ。時間をかけて自分で化粧を終えたのは良いけれど、角度を変えては幾度も念入りに検め、ここの化粧が駄目、ここの部分が足りないと零しては、せっせと直している。
 鏡を覗き込んで恋人の訪れに胸をときめかせるその姿は、まさに恋する少女そのものだ。その様子をナヨンはずっと微笑ましく見つめていた。
 ナヨンはけして派手な美人ではないが、優しい気性で働き者の彼女は、同じこの屋敷に仕える若い家僕たちの憧れの的でもある。既に何度となく執事の息子からも求愛されているものの、ナヨン自身は我が身の幸せよりも、亡き母の遺言どおり、まずはお嬢さまの幸せを見届ける方が先だった。
 口には出せないけれど、ナヨンにとって、凛花は実の妹のような大切な存在であった。
 凛花がもう一度、鏡を覗いた。もう、これで何度目になるか判らない。ナヨンの顔に思わず微笑が広がった。
 むろん、凛花は乳姉妹のひそかな笑みにも気づかない。更に紅を直そうと床に落ちたままの貝殻に手を伸ばしたその時、両開きの扉が開いた。
「文龍さま」
 凛花の面が忽ちパッと輝く。
 無意識の中に立ち上がり、文龍に飛びつかんばかりの凛花の様子を見て、ナヨンの笑みが更に深くなる。
 だが、凛花の生き生きと輝く瞳がさっと不安に翳った。文龍の顔色がいつになく冴えない。どこか具合が悪いのではと案じてしまうほどで、疲労の色が濃かった。
「文龍さま、どこかお具合でも悪いのですか?」
 思わず訊ねずにはいられない。
 しかし、文龍はその問いにはなかなか応えず、物言いたげな視線で凛花を見つめているだけだ。
 ややあって恋人の口から発せられた問いは、凛花には予想もしないものであった。
「そなたこそ、顔色が思わしくない。義父上が心配なさっていた。ここ半月ばかり、凛花が塞ぎ込んでいることが多いと」
「それは」
 逆に自分のことを気遣われ、凛花は黙り込んだ。
 文龍に逢える歓びで、ほんのいっとき忘れていたあの男の存在が再び脅威となって凛花にのしかかってくる。
 凛花は消え入るような声で呟いた。
「私のことなど、どうでも良いのです。たいした問題ではありませんから」
 背後で扉が静かに閉まる音が聞こえた。ナヨンが気を利かして、出ていったのだ。ナヨンが席を外してくれたのは好都合といえた。
 それでなくとも、ナヨンは凛花のために自分の幸せを後回しにしようとしている。執事の息子はナヨンとは同い年で、人柄も悪くない。ナヨンも満更、嫌いというわけでもなさそうだし、あの二人なら似合いの夫婦になれると思うゆえ、結婚をそれとなく勧めてみても、ナヨンはいつも
―お嬢さまが無事、皇氏の若さまの許に嫁がれたら、それから考えてみます。
 と、笑ってはぐらかすだけだ。
 もちろん、凛花としては、嫁いだ後もナヨンには側にいて貰いたい。が、それはナヨンの人生を凛花に縛りつけることになってしまう。
 ナヨンはまだ若いのだ。仮に執事の息子と結婚すれば、ゆくゆくは執事の妻として申家の奥向きを取り締まる大切な役目を担うことになるだろう。機転のきくナヨンなら、どこでも上手くやってゆくには違いないが、勝手の違う皇家で新参の女中扱いされるよりは、慣れ親しんだ申家にいる方がナヨンには数倍良いはずであった。
 ナヨンがこれまでにも自分より凛花の幸せを考えてくれてきたように、凛花もまた自分の我が儘を通すより、ナヨンの幸せになる道を考えたい。それが、凛花を大切に育ててくれた乳母に報いることでもあるはずだ。
 また、ナヨンが申家に残ってくれれば、凛花も安心して父を残して嫁げるともいうものである。
 しょっ中、屋敷を抜け出すお転婆な凛花のために、ナヨンは気の休まる暇がない。十日前には、ナヨンの眼を掠め一人で町に出て、帰ってきたら、物凄く怒られた。
―お嬢さまに何かあったら、私はもう生きてはいられません。亡くなった母にどう言い訳したら良いんですか?
 と、泣き出す始末で、凛花はナヨンに死ぬほどの心配をさせたことを後悔した。
 そんなナヨンにこれ以上の心配はかけられない。万が一にも、これから文龍にあの日のことを打ち明ける段になったとしたら、ナヨンは自分のいない間に凛花が災難に巻き込まれたと知り、また我と我が身を責めるだろう。