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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅳ

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★逢瀬★ 

 数日後の朝のことである。三鷹が由梨亜に突如として言った。
「夫婦のデートでもしようか?」
 朝は食後のコーヒーはブラックと決まっている三鷹に、由梨亜は淹れ立てのコーヒーを手渡した。
 白いカップからは湯気が立ち、何ともいえぬ香りが立ち上っている。
 由梨亜が愕いていると、三鷹は笑顔になった。
「今日は珍しく仕事が早く終わりそうなんだ。滅多にないから、そういうときでなきゃ、君とデートなんかできそうもないしね」
 言われてみれば、自分たちはまだ〝デート〟なるものをしたことはなかった。同じ屋根の下で暮らし始めて、そろそろ三週間になるのに、妙だといえば妙だ。
 しかし、自分と三鷹の関係はそもそも偽装結婚から始まったのだから、それも致し方ないことかもしれない。
 デートという甘い余韻のある言葉は、由梨亜の胸を高鳴らせた。由梨亜も若い女性だ。やはり、好きな男と一度くらいはデートしてみたい。きっと、また一生の宝物になる素敵な想い出が増えるに違いない。
 母が退院したら、三鷹とは別れる。
 その想いは今も変わらない。三鷹が何故、偽装結婚を装ってまで父親を欺かねばならなかったのか。由梨亜はまだその理由を知らない。むろん、訊きたいという想いはあるけれど、知ったところで、どうにかなるものではないのだ。
 幸いにも母は順調な経過を辿っていた。この様子では、三ヶ月といわず二ヶ月ほどで退院できるだろうと担当医からも言われているる。
 別離はやがて確実に来る。今はせめて楽しいことだけを考え、彼と過ごす一日一日、いや一瞬一秒をかけがえのないものと思い大切にしてゆきたかった。
 だから、その朝の三鷹の提案は、むしろ由梨亜にとっては大歓迎だったのだ。
 三鷹がいつもどおり〝出勤〟した後、由梨亜は大急ぎで部屋中の掃除を済ませ、N病院に行った。その日、会社は有給を取ったと言い訳して夕方まで母の許で過ごし、午後三時に病院を出た。着替えるために、一旦マンションに戻ったのだ。
 三鷹との待ち合わせ時間は四時半である。場所はN駅前の喫茶店だ。そう、あの童話めいた小さな建物―、三鷹との出逢いは実はあの場所から始まったのだ。由梨亜が会社をクビになったその日、失意のまま歩道を歩いていたら、風にビラが飛ばされてきた。
 そのビラに模擬披露宴の新郎新婦役募集が書かれていた。職探しに困り切っていた由梨亜は、てっとり早く現金収入を得るために代役の花嫁を務めることを決意したのだった。
 あれからまだほんの一ヶ月しか経ってはいないのに、もう十年くらい経ったような気がする。いや、恐らく由梨亜にとっては本当に十年分にも相当する時間なのだろう。
 最愛の男と過ごす、二度と戻らない大切な時間。気の遠くなるような長い生涯の中で束の間の至福の時。
 こんなに大好きなのに。
 いずれ自分は彼から離れなければならない。
 そう思うと不覚にも涙が溢れそうになる。
 いけない、こんな調子では駄目だ。由梨亜は零れ落ちそうになった涙をまたたきで散らした。
 と、突如として頭上から声が降ってきた。
「城崎さんですか?」
 男性のものだが、大好きな三鷹ではなかった。慌てて顔を上げると、由梨亜は〝あ〟と小さく声を上げた。
「安浦先生」
 長身で銀縁眼がねがよく似合う男は何と母の主治医安浦大胡(だいご)であった。悪魔的に美しいともいえる三鷹とはまた違った意味でイケメンである。知的なイメージが強く、どこか冷たい印象を与える場合もあるが、患者の立場になって物を考えることのできる医師だ。
 安浦医師が母の担当になってから、数年になる。母も由梨亜も彼には全幅の信頼を置いていた。
 由梨亜は立ち上がり、丁重に頭を下げた。
「母がいつもお世話になっています」
「まあ、座って下さい」
 安浦医師に勧められ、由梨亜は再びテーブル席についた。彼もまたテーブルを挟んで向かいに座る。
「泣いていたんですか?」
 安浦医師は由梨亜の眼に滲んだ涙をめざとく見つけたようだ。由梨亜はハッとして、手のひらで目尻をこすった。
「いえ、ちょっと眼にゴミが入っただけですから」
 由梨亜は微笑んだ。
 そこで若いウェイトレスが注文を取りにきて、安浦医師はホットコーヒーを注文した。
 由梨亜の前には半分ほど減ったアイスティーが置いてある。氷も溶けて、かなり薄くなっていた。
 ウェイトレスが去ってから、安浦医師はいつもの生真面目な表情を崩さずに言った。
「今度のことでは、娘さんも大変でしたね」
 彼はどうも涙の原因は母のことだと思い込んだらしい。
「お陰さまで、母も日増しに元気になっていっているようですし」
 無難な応えを返すと、安浦医師は少し躊躇った様子を見せてから切り出した。
「一度、娘さんの方にお話ししておかなければならないと思っていました」
 刹那、胸が騒いだ。
「あの―、母の具合は思わしくないのでしょうか? 三日前にお聞きしたときには、順調だということで、ひと安心していたのですが」
 ともすれば声が震えそうになるのを堪えて、それでも勇気を振り絞って問うた。
「ああ、そんなに顔色を変えないで下さい。何も今すぐにどうこうという問題ではないのです。ただ―」
 医師はまたここで言葉を濁した。
「先生。何でもおっしゃって下さい。母は私にとって、たった一人の身内です。たとえ、どんなことでも真実は知っておくべきだし、私は母のためにできることがあれば何でもしてあげたいんです」
 安浦医師は幾度も頷いた。
「お母さんの病状は予想外に好転しています。私も愕いているほどなんですよ。ただ、それは今、使用している薬が城崎さんには大変合っているからだと考えられるのですが、以前にも申し上げたように、この薬はかなり強いもので、様々な副作用も出やすいんです」
「では、副作用が出始めているのですか」
「残念ながら、そうとしか言いようがない状態ですね。この薬の副作用としては目眩とかふらつきが主な症状なのですが、稀には血圧が急上昇することもありまして。城崎さんの血圧は服用前までは安定していたのに、今朝の段階では下の最低血圧が一〇〇を越えていました。少し危険な状態になりつつあるといえます」
 由梨亜は声を震わせた。
「では、先生。母はこれから、どうなるのですか?」
 医師は沈痛な面持ちでわずかに首を傾げた。
「方法としては二つあります。まずは今の薬を止める。しかしながら、お母さんの容態はこの薬のお陰で奇跡的な回復を遂げているのだから、もし急に止めたとしたら、また悪化することは十分に予測されます。もう一つは、今の薬を続けながら、降圧剤を服用すること。ただし、これもリスクがないとはいえません。降圧剤そのものがかなり強い薬なのです。なので、非常に強い薬を併用することが城崎さんの身体に果たして真の意味で良いのか、言い換えれば、身体が堪えうるかという点が懸念されますね」
「そう―なんですか」
 由梨亜がうなだれるのを見て、安浦医師は励ますように言った。