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尖塔のみえる町で

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1 モスクワから・二十三歳・オーラ 三月



 
 早いものだ。明日にはもうこの町を去らなければならない。
 このひと月の間、毎日のように眺めてきた裏庭の景色ともお別れだ。ここへ着いた日には灰色の空から凍み雪の上に雪片が舞い、ああケンブリッジでも雪の毎日を過ごすのかと、すこし重たい気分になったことをはっきりと憶えている。それが、きょう私の眼に映るのは、澄みきった青い空と雪がすっかり溶けた庭のみずみずしい緑の芝生なのだ。もうすこしすれば、アンが話していたように庭の花壇は水仙やチューリップなどで明るく彩られるのだろう。
 ああ、もっとここにいたい。春はこれからやって来るというのに。
 窓を開け、外の冷たいけど気持ちのいい空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、だれかがドアをノックした。どうぞと言うと、ゆっくりドアが開き、ユージの笑顔が現れた。
 彼は静かに部屋に入ってきて、私に一枚の写真を差し出した。そこには私とユージだけがどちらも愉しそうに笑って写っていた。ビールの1パイントグラスが置かれたテーブルを前に並んで腰かけている。先週クラスメートたちと行った川べりのパブで、だれかに撮ってもらったものだろう。どうしてこんなに笑っているのか、その理由は思い出せないけど。
 サンキューと私が言うと、ユージは写真の裏を見てと言った。裏返すと、私には読めない奇妙な文字が並んでいた。たぶん日本語だろう。まったく日本人というのは、なんだって、こんな魔法がかかったような不思議な文字を書くんだろうな。
 日本語なのと私は確かめた。ユージはうんと言って、私が生まれて初めて聞くことばを発音した。何度か聞き返して、まねしてみた。ユージはうまいと褒めてくれた。 
「また会いましょう」という意味だそうだ。私はロシア語で同じ意味の言葉を返したが、彼の発音があんまりひどかったので、思わず声をあげて笑ってしまった。ユージはそれをおもしろがって、めちゃくちゃなロシア語を何度もくり返した。私はお腹がよじれるくらい笑って、笑って、もうお願いだからやめてちょうだいって英語で叫ぶ始末。
 私とユージは同じ日の夕方、ほんの五分違いで、私のほうが遅れてこのアンの下宿に到着したのだけど、私はモスクワから、彼は東京からやって来て、それでたった五分の差っていうのも考えてみればおかしな話だ。
 彼の部屋はピンクの花柄の壁紙にコンスタブルみたいな雰囲気のいい風景画が掛けてあって、おまけに大きな出窓がついていて、ベッドカバーもかわいい花柄だった。私の部屋はもっとこぢんまりしていて、壁はただペンキで白く塗っただけ、絵なんか一つもない。ベッドも腰をおろすとぎしぎし鳴った。暖房も小さなラジエーターがときどきカラカラ音をたてるだけで、ちっとも暖かくない。モスクワの私の部屋では真冬だって半袖で過ごせるくらいなのに。
 たった五分の差が、ケンブリッジでひと月過ごす部屋に対する私の夢を惨めなものにしてしまったのだ。男の子に花柄は似合わないから部屋を替えてくれないかとユージに頼んだら、彼は私の部屋を見にきてこう言ったのだ。
「ごめん。花柄が似合う男になろうと努力してみるよ」
 ユージは私が生まれて初めて会った日本人だが、この発言は日本人に対するイメージをすこし変えた。彼が殺風景で寒々しい私の部屋を嫌ったのはその表情ではっきりとわかった。でも、日本人ならもっと事務的で生真面目な答え方をすると思っていたから、女の子のお願いを聞き入れてくれないことで軽蔑したくなる反面、これからひと月つき合わなくてはならない相手として、いくらか気持ちが楽になったのも事実だった。
 それでも、やっぱり空港で捕まえたタクシーがもうすこし頑張って飛ばしていてくれたら、ユージの素敵な部屋は私のものだったのにという思いは捨てきれなくて、ユージの部屋に顔を出すときはいつでも、まあなんてきれいなお部屋!と言ってやった。こういうところが、私のかわいくないところなんだろうな。
 ああ、でも、それがなんて不思議なことだろう。今ではこの小さな部屋がとてもいとおしい。白くて冷たい壁、脚ががたつく粗末な机、ぎしぎし鳴るベッド……。私にとって初めての(そしておそらく最後の)外国でのひと月を、この部屋のすべてのものが知っているのだ。英語がうまく話せなくて落ち込んだ日も、ロシア語が恋しくて泣いた日も、ユージとけんかしていら立っていた日も……、そしてモスクワに帰ってから何をすればいいのか、将来の不安に眠れない夜も、私はこの部屋ではありのままの自分をさらけ出すことができたのだった。
 モスクワの私の部屋からは向かいの高層アパートと陽の差さない陰気な通りが見下ろせるだけ。そんなところに帰るのは、いやだ。
 私とユージはこの家に来たばかりのころ、お互いに英語がへたくそで、学校でもここでも自分の気持ちを十分に伝えられなくてストレスを感じていたせいだろう、ささいなことでよく衝突した。宿題の範囲のこととか、クラスメートと飲む約束をしたパブへの道順のことだとか、私の朝の洗面室の「占領時間」が長すぎるだとか、そういうことで言い争いをしたものだ。片言の英語で。アンは端で聞いていて、幼稚園児のけんかみたいと笑っていたかもしれない。
 私も主張を曲げないほうだが、ユージも一歩も譲らない性格だ。結局、似た者どうしなんだろうな。それでも、すこしずつ打ち解けて、ディナーの後なんかに、ずいぶんといろんな話をした。ユージはロシアと日本の領土問題とか、ゴルバチョフのこと、エリツィンの人気度なんてことをまじめに聞き出そうとすることもあった。みんなロシアを悪者みたいに言うけど、ロシアは自分たちから他国に攻めていったことなんてないと、思わず声を荒らげてしまったこともあったっけ。
 政治的な話題は避けたかったけど、三年前エリツィンが最高会議ビルにいる反対勢力を攻撃したときのこと──私が地下鉄の通路にいたとき突如、戦車の砲撃が始まった話──をしてやったら、ユージはひどく興味を示し、私が今ここで生きてしゃべっているのが奇跡のことのようだといわんばかりに驚いていた。
 そう、それから、ある夜とても面白いことがあった。私とユージはパブからの帰り道、無数の星が瞬いている夜空に突然出現した飛行船がゆっくり頭上を行き過ぎるのを二人で眺めたことがあったが、光の灯ったその船体には「PHILLIPS」という大きな文字が書かれていた。私たちはちょうど下宿のおかみさんであるアン・フィリップスの噂話(アンは七十過ぎの独身老女だが、ときどきディナーを食べにくる老紳士トムは恋人なのかどうかについての意見交換)をしていたので、まったく思いがけないアン・フィリップスのご登場に、暗い通りを歩きながら二人でげらげらいつまでも笑い続けたのだった。
 ああ、私はもっとここにいたい。モスクワには帰りたくない。ユージともっと話がしたい。え? ユージと? 私は何を言ってるんだろうか? 本気でそんなことを思ってるんだろうか? いや、ちがう。
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO