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飛び込んだ先

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自分の中におぼろげにある記憶は、時折どうしようもなく自分を熱くさせた。小さい頃に通っていたスイミング・スクールでやっていた、高飛び込みの光景である。


 体が弱かった私を、どうにかして丈夫にしようと両親が思案を巡らせた結果、私はスイミング・スクールに通うことになった。三歳の時のことである。
実は、未だにその時のことを覚えている。母にだっこされたままぬるい子供用のプールに浸かったこと、溺れないため両脇に付けられていた浮きの窮屈さ、一緒にプール初体験をした男の子が、お母さんから離れた途端号泣してしまったこと。その時、なんて情けない男の子なんだと子どもながらに思ったこと。ませた子どもだったんだろう。
 その時の記憶は残念ながらここまでで、次に覚えているのは、鼻に水が入って痛い思いをして、泳ぎたくない水が怖いと言った私を、コーチがプールに容赦なく投げ込んで、という荒療治だ。スイミング・スクールに毎度付き合ってくれていた母も、このことはずっと覚えているらしく、投げられたあんたはすーっと泳いで戻って来たのよ、と何度も同じ話をしてきた。
 強烈に印象に残っているのはそれくらいで、あ、最後のミーティングの最中で、泳ぎ過ぎたのか、男の子がカレーを吐いたこともよく覚えている、すぐ隣の子が何の前触れもなくいきなりゲロっとやって、危うく踏みそうになったから――そう、それくらい。
 そして、何の脈絡もなく心に焼き付いている光景がひとつ。

 競泳用の二十五メートルプールの先に、飛び込み台のついた高飛び込み用のプールがあった。
 競泳のスクールにいた私は、二十五メートルプールのプールサイドに肘をつき、足をばたつかせながら飛び込み台を見ていた。ドーム型で天井の高いこの施設は、夕方になるとオレンジの光が差し込んできて眩しいくらいだった。隣のレーンでは、オリンピック強化選手を目指している小・中学生がひたすらにクロールで二十五メートルを往復している。普段は子供たちの声で溢れている空間も、スクールが終わったばかりの入れ替えの時間には、選手たちしか残っていない。彼らが水を蹴る音と、プールサイドの波の音、低く唸る空調くらいしか耳に届きはしなかった。たまにかかる水飛沫も気にならず、私はずっと飛び込み台を見ていた。
 一番上と、真ん中くらいにそれぞれ飛び込み台がある。滑り台の様に後ろに階段があるんだけれど、滑り台なら斜面が始まる所には、にょっきり板が張り出して(本当はコンクリート製で、「板」なんて表現をしたら怒られるような重厚で頑丈なものだ)、そこから飛び込むのだ。隣には、競泳のスタートに使う低い飛び込みも設置してあって、その比較もあってか、子供の私にはかなり高さがあるように感じていた。施設の規模からすると、そこまで本格的な飛び込み台ではなかったのかもしれない。ささやかな市民の憩いのプールだ。平日はスクール生で溢れていようとも。
 現に、私はその飛び込み台が使われている所を見たことがなかった。施設の隅にある、がらんとした、飛び込み台。古いのか、白の巨体は薄汚れて、高さのペイントもかすれてしまっている。影になっているその辺りには直接窓からの光は届かず、あわい光が景色をぼやけさせる。夢心地の飛び込み台。

 一度、ほんとうに夢の中にその飛び込み台が出てきた。夢の中の飛び込み台は真っ白で、窓からの光が反射して水底を明るく照らしていた。顔の見えない男の人が、こちらに軽く手を振って、そして飛び込んだ。実際に高飛び込みを見たことはないから、スタートの姿勢は両手を水面に真っ直ぐ向けた、競泳のものだった。体を二つに折り曲げて、きれいに一回転をして、音もなく水の中に落ちた。放射状に水飛沫が上がって、きらきらしているのを、やっぱり私は競泳用の二十五メートルプールから見ていた。

 そんな記憶が、たったこれだけが、私の何かを熱くさせる。
 言葉にはできない。私にもわからない。子供の頃に本当に好きだった、帰りたくないと言って壁にしがみつき、母に腕を引っ張られて脱臼した、そんな思い出の詰まったスイミング・スクールの象徴だったのかもしれない。一度も使ったことのない、使われたところを見たことがない、あの汚い飛び込み台が。
 今、もうそのプール施設はない。経営が破たんして、高台にあったそこは更地に戻され、芝生が敷かれ、日当たりの良いただの公園みたいになっている。もう何年もそこには行っていない。
 この歳になって、私は無性に高飛び込みがしたい。あの頃を思い出すように、感傷に浸るように、夢を忘れられずにいる。
 飛び込んだ先に、何があるのか、知ることが出来たなら、何故私があの飛び込み台を夢にまで見たのか、わかるのかもと思って。



2012.06. 塩出快
作品名:飛び込んだ先 作家名:塩出 快