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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の三

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と、志満は笑いながら、憎らしいことを言う。
「私のような年寄りは、いかに何でも若さまのお相手は務まりませぬゆえ、幾ら嫌われても平気にございます」
 これでは、どちらが主従か判ったものではない。むろん、志満は敬資郎の出生の秘密を知っているが、表立って口にできることではない。
 恐らく志満は敬資郎の出生の秘密を知る数少ない人間の一人なのだろう。しかし、それをあからさまに態度に出すような女ではない。だからこそ、父も志満を長年、側近くに置いているのだ、
「そのように下らぬ話はもう良い。それよりも、まつは、どうしている? 屋敷での暮らしにも大分慣れてきたか?」
 慌てて別の話題をふったのだが、それがかえってまずかったことに、彼自身は気付いてもいない。
 案の定、志満は意味ありげに笑うと小首を傾げた。
「良い娘でございますね。よく働くし、気も付きます。何よりも気立てが良い娘のようです。若さまがお気に入られるのも無理はございませんねえ」
 最後の科白だけをわざと強めて言う。
 いかにも含むものがあるとでも言いたげな視線がじいっとこちらへ向けられている。
 敬資郎は頬がますます熱くなった。志満の手前、恥ずかしいことはこの上ないが、いかにせん、自分ではどうにもならない。むしろ、制御しようと思えば思うほど、頬は熱を帯びてくる。
 今の自分の姿だけは、願わくば鏡で見たくないと思わずにはいられない。まつのような可憐な少女なら頬を染めるのも初々しいが、二十一の男が紅くなったとて滑稽なだけだ。あまりのみっともなさに、敬資郎はプイとそっぽを向いた。
「余計なことを申すな。そなたがお喋りなのは昔から変わらぬな」
「若さまもお顔にお気持ちがそっくりそのまま出る正直なところは、ご幼少の頃から変わりませんね」
「―」
 全く、ぐうの音も出ないとは、まさにこのことである。何しろ二十一年前に襁褓を替えて貰った志満には、いまだに頭が上がらないのだ。
 
 午後からは敬資郎は剣術の稽古に出かけることにした。そろそろ師匠から申し渡された謹慎も解ける頃である。どうやら、志満とまつも二人打ち揃って出かけるようだ。どこにゆくのかと問うたら、随明寺に花見にゆくのだと志満が応えた。
 敬資郎も丁度出かけようと思っていたところで、ついでに玄関まで二人についてゆく。
「禎助(ていすけ)でも連れてゆくか?」
 念のため言ってやったが、敬資郎自身、春霧楼の女将がもう、まつを取り戻そうとすることはないのではないかと思い始めていた。
 まつがこの屋敷で暮らすようになってから、既に十日余りが経っている。敬資郎にせよ、志満にせよ、誰もが気を緩め始めていたのは確かであった。
 禎助というのは、屋敷の下男である。三十そこそこといった歳だ。無口で無愛想、とっつきにくい男ではあるが、その分、口も固く、信用のできる人間で、しかもよく働いてくれるので、助かっていた。
「大丈夫でございますよ。桜を見たら、どこにも寄り道せず戻って参ります」
 志満が頼もしく言うので、敬資郎もつい頷いていた。
「そうか。確かに今年の桜もそろそめ見納めだな」
「もうひと雨来れば、本当におしまいでしょう。ねえ、おまっちゃん。私のようなお婆さんとわざわざ花見になんぞ行かなくとも、折角だろから、若さまとお二人で行けば良いのに」
 若さま、私は今朝から何度もそう勧めたんですけどねえ。
 志満が賑やかに話すのに、敬資郎は窘めた。
「おい、志満。止さないか。まつが迷惑がってるだろう」
 志満が改めて傍らのまつを見ると、まつの白い頬に朱が散っている。
「あらあら、本当だ。おまっちゃんは今の若い娘には珍しいくらい、おぼこなんだから」
 敬資郎とのことをからかわれ、真っ赤になっているまつを彼は可愛いと思う。もし、この場に志満がいなければ、すぐに勢いでまつを抱きしめていただろう。流石に、志満の手前、そんな馬鹿げた真似はしないが。第一、このお喋りで気の好い女の前でそんなことをしようものなら、何と言ってからかわれるか知れたものではない。
 今日中には父にまでその話が伝わり、日頃は滅多と冗談を言わない父でさえ、その話題を持ち出して彼をからかおうとするだろう。
「では、頼んだぞ」
 敬資郎は式台に佇み、笑顔で志満とまつを送り出した。少し歩いた先で、杖をつく志満が脚許の小石に躓き、つんのめった。働き者の志満だが、長年の過労が祟ったのか、この頃、とみに脚腰が弱ってきた。長距離を歩くときは杖を使うほどになっている。
 長らく稲葉の屋敷は女手が不足していた。志満はたった一人で広い屋敷内のことをすべてこなしていたのだ。そのため、急に現れたまつは、志満の良き助けとなっているようだった。志満がまつを気に入っているのも、くるくるとよく働く働き者のところが大いに影響しているのだ。
 危うく転びそうになった志満の身体を、まつが咄嗟に脇から支えた。
「大丈夫ですか?」
 気遣わしげに問いかけるまつに向かって、志満が微笑んでいる。そこからは、まつが志満の手を引いて歩き始めた。傍から見ていても、実の祖母と孫のようで、微笑ましい光景だった。
「よし、私もひと汗流してくるとするか」
 敬資郎は両手を天に突き上げ、うーんと伸びをする。今日こそは剣術に集中して、師匠の怒りを解いて汚名挽回とゆかなくてはならないと意気込む。
 いつになく気分が高揚している。
 頭上には真っ青な春の空がひろがっていた。何の鳥か、白い鳥がはるか彼方で輪を描くように旋回し、どこへともなく飛び去ってゆく。

 随明寺の桜は既に盛りを過ぎてはいたものの、まだ十分に見応えがあった。
 随明寺は黄檗宗の名刹であり、開基は浄徳大和尚である。浄徳は京都宇治に万福寺を開いた隠元隆琦の高弟であり、寛永年間にこの場所に随明寺を開山した。
 まずは〝息継坂〟と称される長くて勾配の急な石段を昇ると、山門をくぐる。山門には〝浄土在是〟(浄土はこれに在り)という額が掲げられている。殆ど色褪せて見えなくなっているが、書かれた当時はさぞや達筆であったのだろうと忍ばれる手蹟は他ならぬ浄徳の手になるものと伝えられている。
 山門から広い境内に入ると、まずは威容を誇る三重ノ塔、金堂などが眼に入る。参詣客は更に奥へと進み、絵馬堂の傍を通り、最奥の奥ノ院へと至る。ここは開祖の浄徳を祀っており、その傍らには通称〝大池(おおいけ)〟と呼びならわされる巨大な池がある。
 人工池とは思えない規模であるが、その周囲に添って十数本の桜や楓が植えられていて、春には花見、秋には紅葉と訪れる人々の眼を愉しませているのだ。
 盛りの頃は押すな押すなの花見客で賑わっていた境内も、今はしんと静まり返っていた。
 この広い境内が賑わうのは、月に一度の縁日市と秋の〝大祭〟、更に花見の時分と決まっている。大祭は縁日市の大がかりなもので、大勢の僧侶が金堂で読経の後、回廊から参詣人に向かって紅白の餅をばらまく。〝寿〟、〝福〟、〝浄〟〝徳〟のいずれかの文字が入った餅を得た者はその年の幸いを約束されるといわれていた。この縁日市と大祭は浄徳大和尚の月命日である初旬に行われる。