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Slow Luv Op.4

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 喉の乾きで夜中に目が覚めた夏希は、台所に向かう途中、離れのレッスン室に灯りが点いていることに、気がついた。
 母屋からのドアの小窓で中を覗くと、
「エツ兄?」
ピアノの前に座る次兄・悦嗣の姿が見えた。
 夏希はそっとドアを開ける。常日頃ノックもせずに部屋に入る彼女なのだが、今夜はなぜか出来なかった。兄の横顔が違って見えたからだ。
 防音の扉を開けると、音が溢れ出す。慌ててドアを閉めた。
 いつもの悦嗣なら、ドアが開くとすぐに演奏を止める。しかし彼の指は止まらなかった。夏希の気配など全く気づく様子はない。
 音が部屋を満たしていた。曲は『幻想即興曲』 ショパンの華麗な旋律に、夏希の体はドアに縫いとめられていた。
――本気の、エツ兄だ。
 彼女の目は、彼の指の動きを追う。生み出だされる音楽が、見える気がした。耳を通して、体中に音が浸透していく。
 本気の兄を見るのは、数える程しかない。九才離れているので、夏希が真剣に音楽を意識し始めた頃には、悦嗣はもう社会人――それもピアノと関係のない――になっていて、ステージでの演奏はほとんど記憶になかった。妹のために弾いてくれたことは何度もあったが、それはあくまでもお遊び。同じ大学の音楽学部に入って、兄を教えた技術系の教授達が夏希を妹と知るや、「あの加納悦嗣の」と冠して兄を誉めそやすので、その才能を知ったようなものだった。
 一昨年の六月に代役で出たアンサンブル・コンサート、同じ年に中原さく也と弾いた母校での模範演奏で、夏希はその『本気』に触れた。前者はクインテットの一人だったし、後者は言わば中原さく也の伴奏だった。ソロでの本気を聴くのは初めての夏希は、興奮していた。
――エツ兄、かっこいい
 曲は途切れなく続いていく。『夜想曲』、『マズルカ』、『ポロネーズ』、ショパンにチャイコフスキー、ラフマニノフと、悦嗣の指はまるで、何かに憑かれたように鍵盤の上を走った。
 自分に気がついて曲が止んでしまわないように、夏希は息を殺して聴き入っていた。
 ピアノの音は明け方、冬の遅い朝の気配が東の空に見える頃まで、途切れることはなかった。
「夏希、おい、風邪ひくぞ」
 床に膝を抱いて座っていた夏希は、兄・悦嗣に起こされた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を開けると、自分の前にかがむ兄の姿が見えた。
「エツ兄…」
「いったいいつからいたんだ? 声かけろよ」
「だって、声かけたら弾くの止めちゃうじゃない。それに、いつもなら気づくじゃん」
 兄は苦笑した。
「お兄ちゃんのピアノ、初めて聴いた」
「いつも弾いてるじゃねーか」
「違うよ、本気のピアノだよ」
 夏希の腕を掴んで、立つように促す。『真夜中のコンサート』の余韻は、もうこの部屋に残っていない。
 兄は夜遅くにいきなり帰ってきた。ピアノの調律のためと言って、来るなりレッスン室にこもってしまった。前の調律から三ヶ月も経っていない。第一、手ぶらだった。外の入り口から運んだとも考えられるが、レッスン室には何もなかった。 昨日のお見合いで何かあったのだろうか?
――でも、エツ兄は最初から断るつもりだったし
 見合いの付録のコンサートはピアノ系ではなかったから、刺激されたわけでもないだろう。何がこの兄を本気にさせたのか。 
「ねえねえ、何かあったの? 実は相手の人が好みだったとか? でも園子おばさんが持ってきた話だから、断っちゃったとか?」
「何にもねーよ。変なこと考えるな。おまえ、今日、仕事だろ? 少し寝ておけよ。俺も帰って寝るから」
「泊まってけばいいじゃん」
「夏希がうるさいから、帰る」
「あ、やっぱり何かあったんだ?」
「疑り深いヤツ。俺はこっちから出るから、鍵、閉めとけよ」
 兄は肩を竦めて、母屋側とは違うドア・ノブに手をかけた。
 ピアノはきちんと片付けられている。一晩中、兄はここで弾いていたのだ。
「エツ兄、かっこ良かったよ」
 今しも出て行こうとしていた兄は、振り返った。
「さんきゅ」
 照れた表情で応えた後、ドアを押し開けて出て行った。
 夏希は閉まりかけたそれに手を伸ばした。ドアはもう一度、押し開かれた。冷気が入ってきたが、気にしない。
 夏希は薄暗い冬の朝へ消えて行く、兄の姿を見送った――耳の奥に残る音を反芻しながら。

作品名:Slow Luv Op.4 作家名:紙森けい