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Slow Luv Op.4

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 見合いを終えて相手をタクシーに乗せた後、ローズテールで少し飲んでから悦嗣はマンションに戻った。待っていたのは、伯母・園子と母・律子からの留守番電話だった。どちらも内容は同じで、相手側がこのまましばらく付き合いたいと言ってきたから、次の予定を決めたいというものだった。
 悦嗣はまず、園子に断りの電話をした。甥の返事を聞くや否や、言葉も挟ませない勢いで説教する。それを我慢強く聞くこと三十分、やっと解放されて実家に電話を入れたが話中で、繋がったのは小一時間してからだった。案の定、園子が長電話の相手で、息子同様、懇々と説教されていたらしい。明らかに、律子の声は疲れていた。
「とにかく、金輪際、見合いの話とかはお断りだから」
 母親の愚痴のような話を、またしても我慢強く聞いて電話を切った。
 竹内綾香は第一印象通り、感じの良い女性だった。音楽の知識はさすがに豊富で、会話にも淀みがなく、悦嗣を疲れさせなかった。演奏会の感想を話しながらの帰途は、見合いということを忘れるくらい会話が弾んだ。それがどうやら彼女に好印象を与えたらしい。
 空調が効いて部屋が暖まる。明日の仕事の確認とメール・チェックのために、PCの電源を入れた。悦嗣はタートルネックのセーターを脱いで、ピアノの上に放り投げた。先に乗っていたコートに中り、一緒に置いてあったプログラムが床に落ちる。それが悦嗣の目を引いた。
 『All Tchaikovsky』――見合いのために用意された演奏会は、プログラムが全てチャイコフスキーで構成されていた。
 その最後の曲は、ゲストにロシアの国際的なヴァイオリニストを迎えての、ヴァイオリン協奏曲。演奏が始まると悦嗣の耳は、ステージ上のソリストが生み出す音ではなく、別の音色を追っていた。情熱的で感傷的、大胆で繊細。生み出された瞬間から、その場の全てを支配する――悦嗣の記憶の中に存在する、中原さく也の音だった。
 それは無意識のことで、気づいた時、自分自身に驚く。中原さく也のオケ付きのソロは聴いたことがない。ステージ上のヴァイオリニストは巨漢で、ボーイングも紡ぎ出す音も、似通ったところなど、どこにもないと言うのに。悦嗣は音楽の中に取り込まれ、音を追いつづけていた。
 隣に座る見合い相手など意識から消え、アンコールの二曲目が始まる時に話し掛けられるまで、すっかり自分の置かれた状況を忘れていたのだ。プログラムを拾い上げると、その事が思い出される。悦嗣の口元に、苦笑が浮んだ。今日の自分はどうかしている…と。
 PCが起ち上がったことを知らせた。メールが受信されているマークが出ている。悦嗣はページを開けた。ダイレクトメールに混じって、英介とさく也の名前がある。マウスを持った悦嗣の手は、迷わずさく也の方をクリックした。以前の悦嗣なら、何を置いても英介が最優先だった。その不文律が崩れたのは、去年の夏。仙台音楽祭以降、まずさく也からのメールを読むようになっている。悦嗣自身、意識してのことではなかったが、今、クリックした瞬間、それに気がついた。
 マウスを握る手を、しばらくの間見つめる。
“二月に入ったら、そちらに行こうと思う。予定が決まれば、連絡する。ウィーンは寒く、エースケは風邪を引いていて咳がひどい。しばらくオケに参加禁止になっている”
 さく也のメールはいつも短い。その口同様、文章も口下手だ。多分、意思を伝えることが、言葉にしろ文章にしろ苦手なのだろう。一度、彼から国際電話が来たことがあったが、これと言ったことも話さず三分で切れた。
 メールの最後は必ず英介の事が書かれている。人のことには気が回らなさそうな彼なりの、悦嗣に対する配慮なのだ。どんな気持ちでその文面を打つのだろう。考えると、少し切なくなった。
“東京も寒いよ”と返信の始めを打ったところで、手が止まった。受信ボックスをクリックして、さく也からのメールを再度開けた。その素っ気ない文面をしばらく眺めた後、悦嗣はPCの前を離れた。本棚から『日本の名勝百選』を取り出す。折印のついた、青天に浮ぶ富士山のページを開いた。雲一つなかった空を横切る無粋なペン字は、さく也のウィーンの連絡先だった。これをさく也が書いたのは一昨年の六月だが、未だに悦嗣はアドレス帳の類に書き写していなかった。自分から国際電話をかけることはない。中原さく也の生活圏は日本からはるか離れたウィーンだったし、示された好意は一過性の、離れてしまえば消えて疎遠になる程度のもので、メールアドレスさえ知っていれば事足りると、あの頃は思っていたからだ。
 ダイヤルボタンを押すと、国内とさほど変わらない呼び出し音が聞こえる。時差は八時間ほど。ウィーンは午後三時を回った頃だろう。仕事に行っているかも知れない。それでも受話器を置く気にはならなかった。
 相手が取った音がして、「もしもし」と悦嗣が話そうとすると、女性の声で外国語が聞こえて来た。事務的なそれは、留守番電話のガイダンスだとわかった。日本と同じように、伝言を促す「ピー」と言う音が聞こえる。
「えっと…加納ですけど。用があったわけじゃないから、掛け直さなくていい。ただ、声が聞きたかっただけだから」
 メッセージを入れたところで、慌てて受話器を置いた。
――何言ってんだ、俺は
 電話を切るまでは、躊躇いがなかった。声を聞きたい衝動も本当で、それを伝える言葉も悦嗣の口から自然に零れた。受話器を置いた時点で、その衝動を思い知る。
 一連の行動を、肯定するのは容易い。そして、その原動力となったものも知っている。
――俺は、
 自分は中原さく也に惹かれている。ヴァイオリンの音色以上に、彼自身に。あの素直な好意に。あの時々の微かな笑みに。
 悦嗣はピアノの上のセーターを手に取り、被りながら玄関へ足を向けた。鍵を引っ掴むと、エアコンも何もかも点けたまま、部屋を出た。

作品名:Slow Luv Op.4 作家名:紙森けい