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夢の唄~花のように風のように生きて~

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 政右衛門の葬儀がしめやかにも盛大に執り行われ、翌月には定市の美濃屋六代目襲名披露の儀が深川の料亭で予定されている。しかし、騒々しいのは、あくまでもお千香の周囲に限られており、お千香自身の日々は以前と何一つ変わるわけではない。お千香と定市の本祝言は政右衛門の一周忌を終え、喪が明けてからということになっている。
 お千香は政右衛門が生きていた頃のように奥まった居室で起居し、良人の定市と臥所(ふしど)を共にすることはない。お千香は、今もまだ父の死が信じられないでいた。覚悟していたのに、それでもなお悪い夢を見ているような心持ちさえする。
 政右衛門と母は当時としては珍しい熱烈な恋愛結婚であったという。母は小さな紙問屋の娘であったのだが、政右衛門がふと通りかがりでその店に立ち寄って買い物をしたことが始まりであった。丁度店番をしていた母に、父はひとめ惚れをしたのだ。
 美濃屋ほどの大店に釣り合いの取れるような店ではなったけれど、堅い商いで羽振りも悪くはない紙屋だったので、さしたる反対もなく、この恋は実った。政右衛門が二十一、お千香の母おさとが十七のときであった。夫婦は長らく子に恵まれず、おさとは結婚の翌年とその二年後に立て続けに流産するという哀しい体験をすることになる。夫婦共にもう子宝は授からぬと諦めた矢先、七年目にお千香が生まれた。
 お千香は生来、身体が弱く、殊に幼時にはよく風邪を引いて熱を出した。医者は、〝この子は成人するまで元気に育つかどうか判らない〟と言い、それを聞いたおさとは泣き崩れた。両親をいたく心配させたものの、お千香は長ずるにつれて丈夫になり、何とか政右衛門もおさとも愁眉を開くに至ったのである。
 おさとが亡くなったのは、お千香が十歳のときであった。お千香がまだ己れの苛酷な運命について何も知らぬ頃である。政右衛門は早くに母親を失った一人娘を憐れみ、掌中の玉と可愛がった。いつか我が身も大人になったら、父と母のように愛し合い、幸せな家庭を築くのだと信じて疑いもしなかったお千香だった。が、十二歳の時、父政右衛門から、そのことについて、はっきりと教えられた。
 自分は生涯、誰とも結婚することはできない。両親のように幸せな恋や結婚を望み、夢見ることは永遠にできないのだと。
 母は政右衛門の他にも何人もの男から求婚をされたというほどの佳人であった。お千香は母親似で、少女の頃から御所人形が歩き出したように愛らしかった。十六歳になった今は、しっとりと朝露を帯びた蕾のような可憐な美貌は人をひとめで惹きつける。
 お千香は小さな吐息を洩らし、立ち上がった。ここにいると、次々に父や母のこと、両親との楽しかった想い出ばかりを思い出してしまう。想いを振り切るように首を振り、仏間を出ると、廊下を隔てて向かい側の自室へと籠もった。
 行灯がほの暗い光を投げかけている部屋は、がらんとして淋しげに見えた。火鉢が置いてあり、室内は十分に温まってはいたが、心の寒さまでを癒やしてはくれない。お千香は無意識の中に自分の身体を両手でかき抱いた。
 不思議なことに、そんなはずはないのに、戸外で降りしきる雪の音が聞こえてくるような気がした。それほどに静かな夜であった。夕刻から降り始めた雪は、このまま降り続ければ、朝方には積もっているかもしれない。
 お千香は眠れぬままに、とりとめもないことを考えた。政右衛門が亡くなった後、いちばんの気がかりは良人定市の存在であった。よもや真面目一途の定市が亡き先代の遺言を違えるとは思わなかったけれど、これからは、あの男を頼りに生きてゆかなければならないのかと考えただけで気が沈んだ。
 本音を言えば、お千香は定市とはできるだけ拘わりたくはない。お千香を妻にすることで定市は美濃屋の身代を手に入れ、それとひきかえに形だけの夫婦で満足してくれるものだと安易に考えている。生涯、夫婦の交わりが叶わぬというのであれば、定市が吉原の遊廓に行こうと岡場所に行こうと、他の女と懇ろになることも致し方なしとも思っていた。
 いや、むしろ、その方がよほど気が楽というものだ。あの蛇のような冷たい眼を思い出しただけで、身体中に膚が粟立つようだ。こうして定市が毎日商いに明け暮れて忙しく過ごしていて、お千香とは話すどころか、ろくに顔を合わせることもないのを心のどこかで安堵していた。
 眠気はいっかな訪れてはくれず、眼だけが冴えていた。父の死からずっとのあれこれで身体だけは疲れ切っていたが、相反して意識だけは確かである。それでも、夜も更けてきたようなので、流石にそろそろ床に入ろうかと思ったときのことだ。
 廊下に面した部屋の障子が音もなく開いた。意外な人物に、お千香は眼を見開いた。
 定市がひっそりと薄い闇の中に佇んでいる。
「何か、ご用ですか」
 我ながら、愕くほどよそよそしい声だった。たとえ昔は主筋とはいえ、現在、定市は良人であり、この美濃屋の主人である。最早、昔のようにお嬢さまが手代に対するような口のきき方は許されない。言うならば、二人の立場は逆転したわけだ。
 だが、定市は何も言わず、すっと部屋の中に入り込み、障子を閉めた。お千香は訝しむような眼で定市を見た。
 実際、こんな深夜に、しかも相手の許可も得ずに寝室に入り込むというのは失礼なのではないか。たとえ夫婦とはいえ、お千香自身はあくまでも形式上だけのものと思っているから、今夜の定市の行為は許せぬものに思えた。
 が、定市はお千香の思惑など意に介する風もない。当然だと言わんばかりの態度で、どっかりと上座に腰を下ろした。火鉢を挟んで、お千香は定市と向かい合う形になる。気詰まりな沈黙が二人の間に落ちた。
 定市の顔を見るのがいやだったので、火鉢にかかった鉄瓶ばかりに意識を集中させようとした。
「お茶が呑みたいな」
 唐突に定市が沈黙を破った。
 お千香はその言葉にホッとした。これでこの部屋を出るための都合の良い言い訳ができた。これ以上、定市と同じ部屋にいるなぞ真っ平ご免であった。
「私、厨房に行って、おみつにお茶を持ってきてくれるように頼んできます」
 おみつというのは、お千香が誕生の砌から傍近く仕えている乳母だ。もしかしたら、実の母以上に近しい存在かもしれない。恐らく、今、この世で唯一心許せる相手に違いない。
 とりわけ十で母を失ってから、おみつは欠かせない人となった。物心つく前から、いつも眠るときは、おみつが傍についていてくれる。もっとも、定市と仮祝言を挙げてからというものは、おみつも遠慮して隣の部屋で眠ることはなくなった。
 むろん、おみつは、お千香の秘密を誰よりよく心得ているし、政右衛門が定市にお千香とは未来永劫夫婦の契りをしてはならぬと約束させたことも知っている。それでも、かりそめにも祝言を挙げたお嬢さまにいつまでも乳母が添い寝することは、はばかられたのであろう。
 お千香が幼い頃、おみつはよく傍らに添い寝して、子守唄を聞かせてくれた。あの唄は、おみつ自身、やはりその母親から歌って聞かされたものだという。幼子にはまだ、はっきりとは意味さえ判らなかったけれど、少し大きくなってからは、それが恋の歌だと判った。