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檀上 香代子
檀上 香代子
novelistID. 31673
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めぐり糸に結ばれし、わが人生

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第一章 運命の助走


(1) 舞 台 へ の 助 走

  昭和17年10月、台湾の台北市に生まれ、物心がついた時から、

音楽が聞こえてくると、それに合わせて、自己流で踊っていたそうだ。

終戦後の引揚者家族には、貧しく大変な時代だった。小学5年生の時、

転校した学校の近くの、教会でバレエの教室が開かれていた。

働いていた母が、飛んだり跳ねたり踊る私をみて、少し家計に余裕の

出来たのを機に、月謝が出せる間だけでもと、そのバレエ教室に連れ

て行ってくれたのだった。そして、私はとりこになり、絶対プロにな

ると決めていた。 だから、3ヵ月後、稽古の後、先生が交通費を出

して、本部スタジオのレッスンに参加させてくださり、入所半年後に

は、トウレッスンも受けさせて貰え、いよいよ、気持ちはバレエリー

ナになる思いで一杯だった。一年目の舞台は、くるみ割り人形の花の

ワルツで花の精。そのあと、我が家の経済は逼迫し、ある日、母より

(お月謝が、払えなくなった)といわれ辞める事になった。。今月で

最後の稽古を終えて、(先生、今月で辞めます。) 泣きたい気持ちを

必死で押さえ込みながら、先生に伝えると(どうして?)と尋ねられ、

(お月謝が払えません。)正直に話すと、先生、私の顔を、ジッと見て

(お月謝は、要らないから、母の会のお金だけでいいから、おいで、

先生は香代ちゃんに教えたいから。)それからは、学校の休み期間は、

(春、夏休み) 内弟子さんと一緒で、泊り込みのレッスンを受けた。

私の出来るお手伝いは、食後の皿洗いと、稽古場のお掃除の床拭きぐ

らいだったが、私には本当に充実した、喜びの時間だった。

中学に入り、これからという時に、足首の故障と心臓発作が、起こる

ようになった。先生も心配して、いろいろな医者に連れて行ってくだ

さったが、原因不明。とうとうドクターストップがかかった。

中二の夏の東京公演(ノーモア、ヒロシマ)の舞台を最後、バレエを

辞めた。 お別れの挨拶に行って、(こんな形で、先生に御礼も出来

ない。)といったら、(その気持ちがあるなら、香代ちゃんが大人に

なって、私にお返ししたつもりで、人に親切、助けて上げれば、優し

さの輪が広がるよ。私に返したら、二人だけで、終わるけど、輪が広

がって欲しいでしょ)と。先生の言葉は、私の根底に根を下ろしてい

る。大切なこだわりとして生きている。 その当時は、自分の人生、

終わったと思い、死ぬことも考えた。今になってみる

と、単純で、燃え尽きるには燃えた部分は少しで、燃える部分が一杯

残っていた。若かった時の思い込みだ。


(2) 母の心遣い バ レ エ か ら 日 舞 へ

 中二の東京公演を最後にバレエを辞めてからの私は、一人で考え込む

ようになり、笑う事の少ない少女になっていた。 ただ、頭の中で、空

想の中で踊ることで、なんとか自分を保っているといった状態だった。 

だから、友達と遊ぶ事より、一人で散歩しながら、踊りの振りや物語を

空想する事で、バレエができないというストレスを解消していた。 

ある意味では、幸運な性格だったのだと思う。しかし、母はそんな私を

心配していたのだろう。 高校3年生の頃、母の勤めていた鉄道弘済会

(今のキオスク)で、日舞のサークルが出来、花柳流のその先生が、

バレエから日舞に転向されたと聞いて、私をそのサークルへ参加させて

くれた。そのサークルは半年で解散したが、趣味で踊ることが出来ると

気付いた私は、日舞もいいなと思うようになっていた。 高校卒業し

銀行に就職し、自分で月謝を払える様になったので、近くの花柳八右衛

門の扉をたたいた。 入門するときに先生から「趣味で習うの? 名取

を目指すの?」と聞かれ、同じ習うなら、プロになる為の稽古をつけて

もらいたいと思い「名取になります。」と答えた。稽古は厳しかった。

ちゃんとできないと扇の要のところでピッシャリとくる。腰が入らない

といって、同じポーズで10~15分間ストップ、膝がガクガク。

一対一の稽古は本当にキツイけど、楽しくて充実した時間だった。

銀行が8時終業で駆けつけると、9時に過ぎ。先生は嫌な顔もなさらず、

稽古を付けて下さる。一年経った頃、お年だった先生が体調を崩され、

夜の稽古は無くなり日舞を辞めた。同じ頃、私は銀行を辞めて、エッソ

石油へ転職した。それから、まもなくサークルの先生だった日舞の先生

によって、演劇に出会う事になるとは。


(3) 運 命 の 糸

 
 日舞の先生の所に通えたのは、たった一年だった。母の会社のサーク

ルと、計一年6ヶ月の日舞経験だった。 20歳を迎え、大人の仲間入

りしたものの、気分は空白状態。なんとなく日が過ぎてゆく。 その年

の春、母が会社に教えに来ていた若い日舞の先生が、先生のスタンドバ

ーのお店のお客、劇団の団長さんから(今、中国TVで芸術参加作品の

主役を探しているのだが、誰かいないかな? 17,8歳の役だが、

20歳ぐらいで、見た目17歳の少女に見える子)と言われたので、

香代ちゃんを推薦したら、会いたいそうだから、喫茶00行って会うよ

うに、私に伝えて欲しいと電話があったと聞かされた。空白状態の日を

過ごしていたので、会うことを了承。

しかし、国語の時間などで、本を読まされると、立ち上がった途端、

心臓パクパクで、一行を読むのに、スムースに読めたことのない私。

出来ないのは判っていたが、自分の何か変われるかもという気持ちと

野次馬的気分で会った。あんのじょう渡された台本がスムースに読め

ない、台詞いうなんて、芝居の経験もない私には無理。つっかえつっ

かえの散々な状態だ。 なんだか団長、岩崎さんが気の毒に思えた。 

帰りの挨拶をしかけた私に岩崎さん(芝居の世界をどう思いますか?)

と聞く。チョッと大人になっていたので、無駄な手間をおかけしたと

の思いから、心にはなかったが(少しだけ、興味あります。)と社交

辞令として答えた。すると、どうだろう(この春、研究生募集で、

もう試験も終て、今週から勉強が始まりますが、来てみませんか? 

話しておきますから、受講料は無料ですから、どうですか?)と言わ

れ、断るのも悪いし、やるものが見つかるかもという期待で行くこと

に決め(お願いします。)頭を下げた。    

行って、皆が、学生時代から演劇部で活動し、主役を張っていた人た

ちで、ど素人は私一人みたい。教わることは、バレエ、発声訓練、

言葉、エチュード、感情の開放、すべて初めてで面白い。皆が知って

いる演劇用語も(エツ、それな~に?)他の人のようにプロになりた

い気持ちもなく、新しい趣味が見つかった気分で、週3回の稽古は、

劣等生であるわりには楽しんでいた。秋の準劇団員の発表会。

舞台のため、研究生の時間も、その稽古に当てられた。芝居に出ない

人たちは、お休みしていたが、初めての世界に触れた私は、稽古を見