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闇に咲く花~王を愛した少年~

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 傲岸な態度を露わにしてきた先刻までよりも、誠恵にはむしろ今の彼の方が怖かった。
「私の片腕となって働いてみる気はないか? 私の期待どおりに見事役目を果たせば、そなたの一生の安泰だけではなく、そなたの家族の面倒も見てやろう。そなたの大切な父や母、幼い兄弟がけして飢えることのないよう約束しよう」
 突如として差し出された予期せぬ言葉に、誠恵は固唾を呑んだ。それこそ、彼がずっと望んできた、たった一つの願いであった。父や母、弟妹の蒼白いやつれた貌、痩せ衰えた体軀が瞼にまざまざと甦る。
 誠恵には三人の弟妹がいる。五歳離れたすぐ下の弟の次に七歳と三歳になる妹がいた。いちばん下の妹は誠恵が女衒に売られて都に来てから生まれたため、まだ顔すら見たことがない。
 誠恵が村を出る時、弟は五歳、妹は二歳だった。弟は村の出口まで見送りに来て、泣きながら誠恵に手を振っていた―。子どもらしい福々とした様子はどこにもなく、手脚は枯れ木のように痩せ細り、いつも空きっ腹を抱えて、お腹が空いたと泣いてばかりいる弟や妹。満足に乳も出ない母は乳が欲しいと訴えて泣き喚く妹を抱え、辛そうに眺めているしかなかった。
 人の好いのだけが取り柄の父親は生まれながらの怠け者で、少しまとまった金が入ると、すぐに酒代に変えてしまい、家にはろくに金があったことがなかった。母と誠恵の二人が細々と田畑を耕し、夜には草鞋を編んだ。そうしてやっと得た金を、父は酒に代える。
 母親が思いあまって金を父の判らない場所に隠すと、怒って暴れ、母を撲る蹴るの乱暴を働くのだ。酒が切れて苛立つ父親に足蹴にされる母を見て、彼は幾度、手斧で父の頭を殴りつけてやりたい衝動と闘わねばならなかっただろう。
 酔った父は、素面のときとは別人のように凶暴になる。また、酒が切れて中毒症状が出たときも同様だった。酒が入ると父は無性に女を抱きたくなるらしく、夜半、ひと間しかない狭い家の中で酔った父が母を組み敷いているのを何度も見た。獣のように酒臭い息を撒き散らしながら荒々しく振る舞う父の姿は、幼い誠恵に底知れぬ恐怖と嫌悪を与えた。誠恵は薄い粗末な布団に潜り込み、震えながら眼を背けていた。
 誠恵にしろ、他の弟妹たちにしろ、父がそういった衝動に駆られて母を手籠めも同然に抱き、生まれたのだ。
 村の若い娘や未亡人の閨に忍び込んで、その家人につまみ出されたことも一度や二度ではない。誠恵が八歳のときには、嫁入りが決まっていた十七の娘と深間になり、許婚者の男に袋叩きにされたことさえあった。
 瀕死の怪我で喘ぐ父を、母は涙を流して甲斐甲斐しく看病していた。
―そんなろくでなしの親父なんか、いっそくたばっちまえば良い。
 傍らで吐き捨てた誠恵の頬を母は平手で打った。
―何てこと言うだい。
 母は、そう言って、さめざめと涙を流した。
 その時、誠恵は実の父に対してそのような無情な科白を吐いたことよりも、母を泣かせてしまったことをひどく後悔したものだ。
 自分があんな人間の屑のような男の息子だと考えただけで、情けなさに泣きたくなり、反吐が出そうになる。それほど父を憎んでいた。
 娘ではなく息子であった誠恵を躊躇いもせず女衒に売り飛ばしたのも父だった。
―こいつは滅法器量も良いし、機転もききますから。
 まるで揉み手でもせんばかりに女衒に愛想を振りまき、〝行きたくない〟と言った誠恵を容赦なく殴りつけたような父親であった。
 父に対する情なんぞ、とうの昔に忘れたが、あんな男でも死ねば、母が哀しむ。だから、誠恵も父にはとりあえず元気でいて貰わねばならなかった。
 母が何故、あんな男をああまで大切にするのか、息子である誠恵にすら皆目判らない。とにかく父はモテる男だった。鄙びた農村には珍しいくらい、色白で細面の優男で、あれで両班の身なりをさせれば、確かに貴族の放蕩息子と言っても通りそうなほどの男ぶりだった。だからこそ、父の見え透いた甘い科白に、村の若い女たちは迂闊にも騙され、ほだされたのだ。
 考えるのもおぞましいことだけれど、誠恵はそのろくでなしの父親にうり二つの容貌を受け継いでいた。女と言ってもおかしくはないほどの優しい顔立ちは、まさしくあの反吐の出そうな父親そのものだ。働き者の母親は色黒の平凡な顔立ちで、彼とは似ても似つかない。誠恵は母親には似ず、怠け者の大酒飲み、おまけに女癖の悪い父親に似た自分自身をも嫌悪した。
 大切な人たちを守るためには、自分は何だってするだろう。もし仮にではあるけれど、この眼前の男の言葉が本当なのだとしたら、いつも空きっ腹を抱えている母や三人の弟妹は、これから一生涯飢えることはない。
「お前の約束とやらが信じるに値すると、どうして私が信じられる?」
 誠恵が瞳に力を込めて問うと、男は頷いた。
「なるほど、そなたの危惧は当然だ。生憎だが、私はそなたに必ず約束を守ってやるという証を見せることはできぬ。だが、この月華楼の女将がその生き証人になると言えば、少しは信じて貰えるのではないか?」
「―女将さんがお前の言葉を保証すると、そう言うのか」
「そのとおりだ。ここの女将は情に厚く、娼妓たちに対しても母親のような情愛を抱いている。そのことは、五年もここで暮らしてきたそなたがいちばんよく知っているのでないか?」
 確かに、男の言葉は道理であった。女将の香月(ヒヤンオル)は稀に見る情け深い人物だ。大抵、廓での遊女の扱いは酷いものだ。働けるだけ働かされた挙げ句、病気にでもなろうものなら、ろくに医者にもかかることもできず犬死にするしかない。
 しかし、ここ月華楼では、娼妓たちは病気になっても、手厚い扱いを受けられる。従って、月華楼で働きたがる女は多いのだが、ここで働けるのは女にも見紛うほどの色香溢れる男というのが内密の必須条件であり、女である彼女たちがその条件に見合うはずがない。
「だが、何故、女将さんがそなたの―」
 そこまで言いかけて口をつぐんだ誠恵を、男が笑いを含んだ声でからかうように言った。
「勘違いして貰っては困る。私と女将は、そなたが考えるような仲ではない。女将は私の血を分けた実の妹、いや、弟だ」
 さも面白い冗談を口にしたように愉しそうに笑う男を前にして、誠恵は少しも笑わなかった。
「女将さんは、さる両班のご落胤だと聞いたことがある」
「私は領(ヨン)議(イ)政(ジヨン)の孫尚善(ソンサンソン)。父は先の礼(イエ)曹(ジヨ)判(パン)書(ソ)を務めた」
「―!!」
 誠恵は息を呑み、男の冷酷ともいえる瞳を見つめた。
「では、女将さんは領議政の実の弟だったのか」
 両班の落とし種だとは聞いていたものの、よもや礼曹判書の血筋だとは考えてみたこともなかった。せいぜいが下級貴族の庶子程度だろうと月華楼の誰もが勝手に推測していたのだ。しかも、孫氏といえば、代々の当主は朝廷で重職を務め、王妃を輩出してきた名門中の名門だ。
「だから、女将さんが五年前に私のことをあなたに知らせたと、あなたはそう言うのだな」
 この男の野望を遂げるために手脚となって働くにふさわしい人材がここにいる―と、この男に知らせたのか。